一章6

「……なあ海衣、ちょっと外でいいか?」ためらいがちに、兄貴は言った。

「え、私?」

「そうだ」

「わかった……」おとなしく、上着を着ると海衣は兄貴の背を追いかける。

 外のひんやりした空気が肌を刺す。吐く息は白かった。

「ええと、ああ、そのな……」

「うん」

「透のこと……任せていいか?」

「透のこと?」

 海衣は思わず聞きかえす。だって、この三人の中で一番頼りになって、自立しているのは透なのに、それをよりによって海衣に任せるなんて。

「ずいぶん肩入れしてるようだけど……親ばか?」

「……そうなのかも、な」

 自嘲気味に、兄貴は口許を歪めた。

「俺もここで透のことを投げ出したくはないんだが、どうにもならねえんだよ」

「ううん……あたしが透にできることなんて、あるの」

「ちゃんと見ていてくれないか、あいつが無理をしないように」

「それくらいなら……」海衣は釈然としなかった。

 それを打ち払うように兄貴は声を潜めて告げる。

「いいか、海衣を信用して言うぞ。近々、あと一週間か一ヶ月かも分からねえ。『スパイス』は『香利』と武力衝突する」

「それって……」

「どれだけの犠牲者が出るか、全く未知数だ。圧倒的に俺たち『スパイス』側が戦力不足だ。相手のさじ加減によっては、俺たちの全滅もあり得るだろうな」

 兄貴は力不足を悔やみ、歯ぎしりをする。

「そんな……」

 膝が震える。そんな状況で、透や兄貴は、どうなるのか。

「だが、俺はその一方的な殺し合いに、透を一切関わらせねえ。最初から、決めてんだよ」

「……なるほど」

 兄貴の瞳には、ただ守りたいものを守ろうとする強い意志がみなぎっていた。

 ただ、海衣はそれを見つめる。

「透は何が起きているのか探ろうとするだろうな。でも、危険に巻き込むわけにはいかねえんだ。頼む、海衣」

 なるほど、責任感が強い透なら、起こる戦闘を隠してもそれを暴いて、自分も戦いに加わろうとするだろう。昨日も、秘密がわかったら戦うと言っていたし。

 いくら強いとはいえ、相手の戦力は未知数だ。

 透が戦えば最悪の場合、命を落とすという悲惨な結果になってしまうかもしれない。そうなれば、兄貴も海衣も悔いても悔やみきれないことになるだろう。ここはファンタジー小説の中ではない、現実だ。取り返しがつかないことは、絶対に避けなければならない。

 なにより、兄貴の強い意志が海衣を揺れ動かしていた。兄貴の覚悟を、海衣も後押ししたい。

「……わかった。任せて」

 海衣は兄貴の熱が籠もった瞳に呑まれ、易々と快諾した。


 この約束が、後に関係に亀裂を生むことも知らずに。

 海衣は、考えが甘すぎたのだ。



「ああ、頼んだぜ」

 兄貴はやっと安堵した顔をみせ、深く息をつく。

「あ、それと」

 海衣は思い出したように、

「ねえ、何かお母さんについて知ってることない?」

 叔父さんはお母さんの弟で、スパイスのリーダー。ならば、何か知っていることも多いだろうと、期待がかかる。

 本当は昨日取り決めた情報収集も怠らないつもりだったが、透を関わらせたくない兄貴は絶対に教えてくれないだろうし、約束をした海衣も訊くつもりをなくしていたから、それはもうやめてしまった。

「好衣に頼まれて透を海衣の保護に向かわせたのは、俺だった」

「え、そうなんだ……」

 あのとき透が現れたのは運命の出会い、そういう綺麗なものだと期待したのに。まさか自分の叔父が関わっていたとは。

 そして、彼がお母さんから頼まれたというのなら。

「やっぱり叔父さん、母さんのこと何か知ってるんじゃ……」

「……大丈夫、好衣はむこうで上手くやってるさ」

 叔父さん――兄貴さんは、海衣をなだめるように言った。どこか遠くを見る目をして。

 兄貴の大きな手のひらで、海衣は頭をなでられる。

「そう……」

 海衣に関しても、情報を教えてくれるつもりは無いらしい。一体この人はどれだけの人を守ろうとしているのか。その守ろうとしている人の中に透だけでなく海衣もいることを、その目を見て知る。

 それでも海衣の心は、真実を隠そうとする不安で満ちていく。やっぱり、人間は知っていないと怖いのだ。

「……教えて、くれないの?」

「これは、俺たちでなんとかしなくちゃならねえ問題だ。子どもが関わる理由はどこにもねえんだ。……それにな、知ったからって。……真実を知った上で、お前らに何ができるんだ?」

「それは……そうだね」

 海衣は、何も言い返すことができない。実際、海衣は無力だ。

「俺がやらなくちゃいけねえんだ、この社会は間違っている」

 その眼に灯る炎は、この人間社会への憎悪と苦しみの紫色だった。視線を下に向けた海衣が、それに気がつくことはない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る