一章裏 写真立て
兄貴が屋敷を訪れる前。
「兄貴」と呼ばれる男は、一人小さな部屋で瞠目する。
『スパイス』は『香利』に抗おうとしている。だが、じきにぼろぼろにされ跡形もなく敗れることになるだろう。
持つ人員の数でも、蓄える資金でも、使える技術でも、握る情報すらも、何もかもにおいて『スパイス』は『香利』に劣っている。勝ち目はゼロに等しかった。
いま生き残れているのは、ただの運と弱者の意地。この張りぼても、じきに形を保てなくなる。
理想だけは誇り高いと胸を張れるが、それではかえって虚しさで埋まるだけだ。
さらに、相手の『香利』のバックには――
これは始まる前から負け戦だ。赤子でも引き際だと分かるだろう。
それでも、俺が逃げることはできない。文字通り命が尽きるまで、俺は世界に抗う。
だが、俺が守っている、か弱い子たちを関わらせてはならない。
そうなれば必然、透を危険の渦中で戦わせる訳にはいかない。
負け戦に庇護の対象を放り込むなんて、そんな馬鹿を俺はしない。
「はぁ……」
何か、何か。ほんのちょっとの明かりでもいい。少しでも、透に俺は残せたのだろうか。そうすれば、俺も少しは救われ――てはいけないのに。
心のどこかでは分かっていた。こんなことで、自分の咎を他人の子で償おうとするなんて、醜い。醜すぎる。俺はそこまで落ちぶれていない。
まだ、乾いた眼は動く。悲鳴をあげる膝は殴って黙らせる。
他人への救いで、あの子への償いは果たされない。
透にしてやった施しは、ほんのり自分の心を潤しただけ。
だが自分には、心を癒やすことさえしてはならないのに。
遠回りしたが、もうそろそろ終着点だ。
自分勝手で失ったものは取り返せないから、自分の身をもって赦してはくれないか。
誰に赦されたいとも、もうわからないのに。
当然、使命は命を燃やすまでだ。
塩辛い水で錆びた金属のフレームの、中心にはめ込まれた尊い日々の結晶。
あのときは、幸せだった。
俺の人生の頂点を永遠に閉じ込めた、その写真立てを揺れる視界で覗く。
女性がいる。微笑んでいる。
ようやく、咎から救われる。お前も、俺も。
子どもがいる。笑っている。
この子は、もう帰ってこない。ならば、俺ももう帰らない。
「なあ、これでよかったのかな」
大粒の水滴で濡れた大切な写真立てを、慌ててハンカチで拭く。
笑っている、
その写真に写っているのは最愛の娘と、今はどこにいるかも知らない、最愛だった人。
小学校中学年くらいの歳。
写真立ての中の女の子は、幸せに包まれて微笑んでいた。
温かく見える室内。おもちゃが散らばっている。
長い黒髪は母親から大切にハーフアップの三つ編みにされて、カメラのファインダーの向こうにいるのであろう父親に明るくピースを向ける。
その美しい笑顔を、笑顔を向けた男の所為で奪われるとも知らずに。
顔の涙の流れる跡を強引に拭い取り、のっそり椅子から立ち上がる。少しふらついた。
あと何回、あの館に顔を出せばいいのだろうか。
向かうたびに救われて、そんな自分に嫌気が刺す。
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