1-1
鉄格子を睨みつけていた。
冷たい床に腰を落ち着け、雫が滴る音を聞く。
ほとんど光がない暗闇だが、もう目は慣れていた。
牢屋。
その施設の存在はずっと前から知っていたが、実際に入ったのはこれが初めてだった。
近くの部屋は空室ばかりのようで、人の気配が感じられない。静かで落ち着けるが、淋しさもある。会話が苦手な身としては、淋しさよりもありがたさが勝った。
しかしありがたさ以上に、住むに耐えない劣悪な環境でもある。
冷たく硬い床と壁。むき出しのトイレからは悪臭が漂う。ベッドはなく、皮が剥がれたマットレスが捨てられたように落ちているだけだ。
なにより気に入らないのは、風の通り道がないところ。空気が溜まり続けている。トイレの悪臭も行き場がない。そう遠くないうちに病気を患ってしまいそうだ。
鉄格子をひとり見つめる男、クオイト・ルエクティロが牢に入れられてから三日が経つ。
もう我慢の限界が近い。
足音があった。看守が暇つぶしに散歩をしているようである。
次第に音が近づいてくる。こちらに向かっていると気づくまで、そう時間は掛からなかった。
コツコツと響く。もう聞き慣れた踵の音だ。
音の方へ横目をやると、奥に影が見えた。
また嫌いなアイツだ。ため息をせずに居られればどれだけよいだろう。
看守の服を着た男が寄ってくる。光を背にして、顔は影で覆われていた。それでも満面の笑みだとよくわかる。機嫌よさそうに肩を揺らしていた。
「なんの用だ?」
強い口調で尋ねるが、看守に用事が無いくらいわかっている。今朝も昨日も同じようにここへ来た。看守はクオイトを見下したいだけなのだ。
鉄格子を挟んで向こう側、看守はゆっくり腰を落とす。
「随分と辛辣じゃないか。友達だろう?」
「心にもないことを」
クオイトは看守から目をそらす。部屋の奥へと移動した。トイレの臭いがキツいが、看守の近くにいるよりはまだマシだ。
無視してやり過ごせればどれだけよいだろう。しかしそうすると看守は機嫌を損ねる。
昨日のことだ。無視してやったら食事に不備が出た。初日の半分にも満たない量しか与えられなかったのだ。
牢の内側で、鉄格子を揺らすしかできない者に権利はない。この看守はそう教えてくれた。
子どもの面倒を見るように、看守の機嫌を取らなければいけない。そうしなければ飢えて死ぬ。
だから仕方がなく会話をするのだ。幸い看守は、クオイトの惨めな姿を見るだけで満足してくれる。世辞を使う必要がないわけだ。
「それで、なんの用があって来たんだ?」
「いやいやいや、用事なんてないさ。ただ、大事な友達の様子を見に来ただけ。ちゃんと生きているかどうかをさ」
「悪いがまだ問題ない。心配どうも」
「ならよかった。お前に死なれたら淋しいからなぁ」
看守はくすくすと笑う。きっと日に日に弱る姿を、楽しむつもりに違いない。
いい趣味をしている。クオイトは心の中で悪態をついた。
「もう用は済んだな。帰ってくれ」
「淋しいことを言うじゃないか。そんなに俺が嫌いか?」
「殴ってやりたいくらいには」
「怖い怖い。少し離れておくか。痛いのは嫌だからな」
看守はすり足で距離を取る。腰にあるジャラジャラとうるさいものを手に取った。
「ほら、見えるか? 鍵だ。これがあればおまえの牢も開けられる。開けてほしいか?」
鍵束が揺れる。十本の鍵がひとつの輪にまとまっていた。
「頼めば開けてくれるのか?」
「そうだな、友達だからな。頼み方次第では開けてやるよ」
嗜虐的な目が、クオイトを突き刺していた。
まるでネズミになった気分だった。水槽の中のネズミ。看守はそこに水を注いでいく。溺れて動かなくなるまで。
クオイトはなぜ自分が牢にいるのか理解していない。法を破った覚えがなかった。
三日前に街をぶらついていたら、急に制服姿に囲まれたのだ。あとは力づくである。
はじめは何かの勘違いがあるのだと考えた。人違いなのだと。しかしどうやらそうでもないらしい。
クオイトを捕縛した者たちは、「クオイト・ルエクティロ」と名をしっかり口にした。
名を呼ばれたときは驚いた。人生で最も驚いたかもしれない。
連れて行かれた先で、覚えがない罪状を読み上げられた。殺人である。どうやら知らぬ間に、貴族をひとり殺していたらしい。
いいや、そんなはずはない。殺人の経験はあるが、体制に仇なす盗賊だけだ。
もちろん弁明はした。殺人なんてしていないと。しかし声は届かない。
机の向こう側にいた文官は、壁と会話をするように、ひとりで話し続けた。クオイトが何を言っても、ひたすら無視を続ける。しばらくして、クオイトは無駄なことをやめた。
あの日から牢が我が家になった。三日前の話である。
全てが夢であれば、どれだけ喜ばしいことだろう。しかし体をつねると痛みがあった。寝て起きても状況は変わらない。牢に繋がれている現状は、紛れもない現実なのだ。
何もせずに過ごせば、間違いなくここで朽ち果てる。筋力を失いやせ細り、病で生涯を終えるだろう。
そんな人生に付き合ってやる義理はない。なんとかして逃げてやる。
ふつふつと湧き上がる怒りが、奥歯を固く噛み締めさせた。
逃げる手段はあるのだろうか。まだ糸口すら掴めていない。力づくで逃げるには、鉄格子も壁も硬すぎる。
なんとか看守から鍵を盗めればいいのだが、今はまだそこまでの油断をしてくれない。
クオイトは天井を仰ぎ見た。
この拘束は王都が承認しているのだろうか。それとも、どこかの派閥か組織が、独断で勝手にやっているのだろうか。今はそれすら確かめる術がない。
感情を込めて看守をにらみつける。こいつに何か喋らせられないか。
クオイトは弁が立つ方ではない。どちらかといえば、拳で物事を解決する。
なんとか失言を引き出したいが、知識も技術も経験も足りない。もっと話術を勉強しておけばよかった。
牢屋に教本はない。もしあっても、あまりにも暗すぎて読めやしないのだが。
看守は牢を開けてくれると言った。友達だから頼み方次第ではとのことだった。
この発言は間違いなく嘘だ。どんな頼み方をしたって意味はない。鍵は見せびらかす止まりだろう。
しかし頼み方を聞いておく価値はある。看守の趣味趣向がわかるかもしれない。これから先、油断を引きだす布石になる。同時に諸刃の剣でもあるのだが。
「頼み方次第では開けてくれるのか。それはいいな。で、どう頼めばいい?」
「じゃあ、踊ってもらおうか。楽しそうに笑顔でだ」
わかりやすいやつだ。要はクオイトを組み敷きたいのだろう。立場の上下差を、より大きくつけたいのだ。
「ふざけるな。どうしてそれが頼むことになる?」
「やりたくないなら構わないよ。そこから出たいって思いが俺に伝わらないだけだ」
「踊る以外に、他にはないのか?」
「ない。ほら、早く踊れよ。踊って見せろ。どこまでもみっともなく」
看守の口元が、いやらしく左右に伸びる。
もしここで無視を決めたら、看守はどう思うだろう。はるか格下に抵抗されたと、勝手に気分を害す。
それはなかなか愉快だが、今後が恐ろしい。食事に汚物が混じるかもしれないな。より辛い毎日は確実だろう。
「……クソッ」
クオイトは立ち上がる。言われた通りに踊るためだ。
視線は足元へやる。悔しさから両手に力が入った。
頼み方を聞いたのだ。どんなことでもする覚悟を決めたつもりでいた。そのときになってみると自尊心が邪魔をする。
「ほら、早くやれよ」
看守をにらみつける。
「笑顔でな」
ああ憎たらしい。いつかこの面を殴り抜いてやる。
そう決めて、慣れないステップを踏んだ。
「ふふふっ、あっははは!」
看守は腹に手を当てる。心の底から笑っていた。飛散する汚い唾が見える。
今更だが悔いた。毎日が辛いものになるとしても、踊りなんてするべきじゃなかった。格好だけでも迎合するべきではなかった。
自尊心がえぐれていく。怒りが濃くなる一方だ。
看守に手が届くなら、引っ張って鉄格子にたたきつけてやるのに。ああ残念だ。看守はしっかりと距離を取っている。
クオイトは踊りをやめていた。いくら無様に踊っても、どうせ牢から出られやしない。
それにもう看守はひとしきり笑ったのだ。満足しただろう。
「おいおい待てよ」
まだ笑いが収まらない看守が、声を震わせながら言った。
「普通はさ、裸でやるものだろ? おまえはなんで服を着たまま踊ってるんだよ」
クオイトは壁を背に座り込む。
「さっきの俺は馬鹿だったよ。これ以上あんたに付き合うつもりはない。まだ踊りを見ていたいなら、姿見の前でやればいい」
「いいのか? そんなことを言って」
「好きにしろよ。だが俺がここから出た後を考えておくことだ。今ならまだ殴るだけで許してやる」
「ふん、できもしないことを。おまえはここで死ぬんだよ」
「それこそ、できるものならやってみろ。本気なら今ここで俺を殺してみればいい。その方が食費も浮いていい」
「そうできないのが残念で仕方ないよ」
看守は大笑いをしていたのだが、もうその影はない。マットレスの横に唾を吐いた後、そのまま立ち去ってしまった。
クオイトは床の唾液を見つめていた。わずかにテカテカとしている。
「汚いな」
拭くものもないので、放置するしかない。間違えて触れないよう、逆側の壁へと移動した。
看守が去って静かになった。これでようやく落ち着ける。
そう思っていたが、また足音が近づいてきた。今回の足音は、看守とは様子が違うようだ。
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