0-4話

 伏す妹をただ見つめる。


 怒りと恐怖が入り混じる。カヒトは言葉を出せなかった。


 うつろな目。腫れたまぶた。切れた唇。青くなった頬。血を吐いた跡。

 冷たい石の床に、ぺたりと横たわったまま動かない。


 まさか死――。最悪が思い浮かぶ。否定するように、力いっぱい首を横に振った。

 そんなわけがない。大丈夫だ。大丈夫に決まっている。


 確かめるのが恐ろしい。しかし確かめないわけにはいかない。

 一歩。また一歩と進むたびに、震えが大きくなっていく。直視したくなくて、目を強く閉じた。


「大丈夫か?」


 名前は呼べなかった。妹に似た、別の誰かだと思いたかったのかもしれない。

 呼びかけても返事はなかった。身じろぎもしない。

 カヒトは薄っすら開けた目の端で見た。少しずつ視線をそっちにやって、しっかりと顔を確認する。

 天井付近からの優しい月明かりが、部屋をいっぱい照らす。

 カヒトが見たのは、間違いなく妹の顔だった。


「どうしてこんなことに」


 涙が流れ頬を伝う。ずっと握っていた緑色の石を思い出した。

 手を開くと、石が月明かりで輝く。


 意地を張らずに、こんな物は渡してしまえばよかった、ガキ大将を怒らせなければよかった。あいつを怒らせたから、だから妹がこんな目にあったんだ。


 悔しさで歯を噛みながら、石を持った手を振り上げる。こんなもの捨ててしまえ。こんな石を見つけなければ、こんな石があったから……。


 しかし投げようとした手は動かない。今これを捨てたところでもう手遅れだ。時間が戻るわけでもない。


 天井を仰いだころ、カヒトの涙は枯れていた。悲しさや苦しさが、自分とガキ大将への恨みへと変わっていく。

 絶対に許さない。

 かつて感じたことがないどす黒い思いが、瞬く間に心を染めていく。

 許さない。


 後悔と恨みでぐちゃぐちゃになった心が、ひとつの言葉を紡ぎ出す。


「殺してやる」


 カヒトはようやく、後ろの存在に気がついた。


「物音がすると見に来てみれば。どこから入った?」


 そこにいたのは初めて見る大人だった。しかし見覚えがある。

 カヒトは睨みつける。それが誰か推測できたからだ。ガキ大将の父親だろう。口元がよく似ている。


「どこから入ったかと聞いているんだ」


 地を揺らすような声は静かだが、敵意がふんだんに練り込まれている。

 しかし今のカヒトには判断力がない。相手の感情を読み解くなんてできなかった。

 だから牙を剥く。


「妹をこうしたのはあんたか?」

「妹? こいつが? ハハハッ、よく似た非常識な兄妹だ」

「おまえが、やったのか?」

「ここへ連れてきたのは俺の息子だ。文句があるなら息子に言うといい。私はせいぜい、泣き叫んでうるさいのを黙らせるくらいしかしていない」


 黙らせる? 足元の妹に目を落とす。何度見ても痛々しくて見ていられない。

 この大人が殴ったのか? 妹がこうなるまでずっと殴り続けたのか?

 大人へ目を戻すと、薄ら笑みを見つけた。

 カヒトの心が真っ白になる。


「うああああああ!」


 気がつけば飛び付いていた。手に握る緑色の石で、力いっぱい殴りかかる。

 体格は圧倒的に負けていた。力もまるで及ばない。

 軽く跳ね返され、床に転がった。


 不安定な足取りで立ち上がる。荒い息が止まらない。


「はぁ、はぁ……うぅう。くそっ」


 馬鹿でもわかる。カヒトでは勝てない。


 頼みの綱は緑色の石だ。唯一これだけが武器になる。

 しかしこれが大人の頭を捉えることはない。身長が足りていないからだ。腕の長さを足しても足りない。ジャンプしても届く距離じゃなかった。

 うまく腹を殴れれば、痛みくらいは与えられるかもしれない。しかし大人の腕の長さを考えると、腹ですらカヒトの手が届くことは決してない。


 それでも飛びかかった。大人の平手が頬に迫る。

 カヒトの雄叫びは、頬が叩かれる音で掻き消えた。

 ガキ大将とは威力が違った。カヒトは殴り飛ばされ、壁に激突し、床へ落下する。放しそうになった石を握り直す。


 体が痛い。このまま横になっていたい。でも立たなきゃ。軋む体に無理をさせ、壁伝いに立ち上がる。


「なにがあったの?」


 知っている声で目が冴える。ガキ大将だ。

 大人の裏から顔を出す。そして目があった。向こうは驚いたのか、口をモゴモゴとさせるだけだ。


「友達は選べ」

「友達じゃないよ。こいつが絡んでくるだけだよ」


 カヒトは肩で息をする。壁を突き放し自立すると、ガキ大将を睨みつけた。


「それより、どうしてこいつが家にいるの?」

「どこかから入り込んだのだろう。碌でもないのが居たものだ」

「警務部に行ってこようか?」

「やめておけ」


 大人は都合が悪いものがあると、妹を見下ろした。

 ガキ大将も妹を見下ろす。ああなるほどと頷き、その後鼻で笑った。


 カヒトの体に熱がこもる。体が痛むが関係ない。歯が削れるほど強く顎を噛み締め、ガキ大将に向かって一直線に突撃した。

 憤怒に塗られたものだったからか、ガキ大将は初めて、カヒト相手に一歩退く。


 しかし大人には関係なかった。次の瞬間、カヒトの上下が反転する。大人に投げ飛ばされたのだ。


 迫ってくる床。受け身が取れず、胸から叩きつけられる。

 呼吸ができない。息を吸うと胸が痛い。恐怖で唇が震えた。


 妹をこんな目にあわせたやつらだ。許さない。憎い。怒りが満ちる。

 しかし同時に恐ろしかった。自分も妹と同じ目にあわされる。怖い。嫌だ。死にたくない。ごめんなさいと、心にも思っていない言葉が喉まで上がる。

 呼吸がやっとな状況、声なんて出やしない。しかし涙はこぼれた。


 大人が一歩だけ出す。その瞬間、怒りよりも恐怖が勝った。


 倒れたまま床をこすりながら逃げる。壁際が終点だった。そこに着いてしまうともはやどうしようもない。距離が縮まるごとに、体の震えが強くなっていく。


「勝手に人の家に忍び込む子には、お仕置きが必要だな」


 大人の目は嗜虐的であり、優しさは微塵もない。血の気が引いた。


 カヒトの元へ手が伸びる。


「やめて! こないで」


 泣きながら叫ぶが関係ない。何の抑止にもならなかった。

 カヒトの腕が掴まれる。握りつぶすように力強く。そして持ち上げられた。


「痛い! 放してよ!」


 暴れられるだけ暴れてみても、大人は微動だにしなかった。

 空いている手で拳を作り、それをカヒトへ見せつける。これからどうなるのかを理解して、カヒトは目を閉じた。


 しかし殴られない。代わりに大きな声が、家中を満たした。


「騒ぎを聞きつけてきました。一大事のようですので、入ります!」

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