第5話 Chapter 5

 十二月が終わろうとしていた。

 一段と冷え込み、空も、木々も、外の世界は灰色に染まり色彩を失っていた。

 鏡に自分の姿が映る。衣装姿のわたしは獰猛な獣に狩られる前のウサギのように脆弱に見えた。

 今日の朝食でのこと。相変わらず家族の間で会話はなかった。父と母と妹のいつも通り無言の朝食。

 普通なら今日はコンサート当日だね、とかそんな会話をするのが普通なのだろうか。

 でもわたしの現実は食器がカチャカチャとする音と咀嚼音だけ。これがわたしの日常。

 玄関で靴を履いているとお母さんがやってきて“今日頑張ってきてね”と一言声を掛けてくれた。そう話し掛けるお母さんの表情は眉が下がりぎこちなかった。それが今日交わした最初の会話。

 お母さんは妹と一緒に高校の入学説明会に行かなければならないらしい。これは父の命令だった。一人では不安だろうから、と言って。

 そしてわたしもぎこちない笑顔を作って行ってきます、と言って家を出た。

 これが普通なのだろうか……。

 好きで、見て貰いたいと願ってピアノを弾いているのに家族の溝はより一層深まるような気がした。

 コンサ―ト会場に着いてからはリハーサルを終え衣装に着替え待機していた。

 控え室にあるテレビからは中継で今演奏している人の映像が流れていた。わたしと同じくらいの年齢の女の子が優雅な手さばきで演奏していた。音のタッチもリズム感も洗練されており、プロを目指していると言われても納得してしまう演奏だった。

 わたしがここで演奏することに意味があるのだろうか。ふとそんなことを考える。

 この舞台に立ってもわたし自身は変わることができない。

 クラスメイトの何人かが今日のコンサートに来てくれているけど、むしろ恥をさらすだけかもしれない。

 演奏に対する不安とは別の恐怖心。足場のない宙に浮いたような不安感。自分の存在意義とはなんなのか。自分は誰なのか、何のために演奏するのか。……わからない。

――助けて……。

 救いを求めて心の中で呟く。少年のような少女を思い浮かべながら……。

 ちょうどその刹那だった。着信音が鳴り響きわたしの思考が遮られ携帯に手を伸ばす。

 表示には蓮雲の名前が表示されて、心臓がドクリと脈動した。

「はい……もしもし」

「ヒナ!ごめん、忙しいところ電話しちゃって」

「いいえ、まだ大丈夫ですよ」

「ちょっと表のロビーに来れる?」

 時計を見遣る。あと30分もすれば出番だろう。

「ええ、少しの時間でしたら」

 電話を切り、ロビーへ向かう。広いロビーの中心にそびえ立つ柱に寄り添うように蓮雲がそわそわしながら立っていた。足早に彼女の元へ行くと彼女はごめんね、と呟く。

「ちょっと話がしたくてさ……この前のお父さんの件はありがとうね」

「この前って……蓮雲が話していたことですよね」

「実はね、お父さんに相談してみたんだ」

 瞼を閉じ、桜の芽が今にも咲き誇るかのように穏やかに微笑む。

「結論から言うとね、好きにしろってさ。最初は……やっぱり反対された。けれど、ちゃんとボクの気持ちを伝えたんだ。お父さんにばかり迷惑を掛けたくないって。そしたらさ、お父さんったら目がひっくり返るみたいにビックリした顔しちゃってさ」

 と、その光景を懐かしむように笑う。

「ボクがそういう想いだって知らなかったんだって。お父さんも迷ってた、どうすればいいか。だから、いっそうのことお前の好きにしてみたらどうだって言われた」

「そうなのですね、良かった……」

 彼女の言葉を聞き、自分の助言は間違いではなったと安堵する。

「うん、ヒナのおかげだよ」

 蓮雲はあの日の音楽室と同じように細い指でわたしの手を握る。

「ヒナに救われたんだ。ありがとう」

「そんなことないですよ。話をしたのは蓮雲でしょ」

「あいかわらず謙遜だね」

 皮肉げに笑いかけると手を握る力が強くなる。

「緊張してる?」

「あんまり……かもしれません。父からは期待されていませんから。見にも来てくれませんし」

 おもわず視線が落ちる。蓮雲は真摯な表情でしっかりと私を見詰める。

「ボクはちゃんとヒナを見るよ」

 決然たる声で彼女ははっきりと言った。

「妹さんに技術で勝つとかじゃなくて、ヒナの……ヒナが奏でたいって想いで弾いたら良いんだよ。ボクはちゃんと聴くよ、ヒナのピアノを。だから誰も聴いてないなんてことはないんだ」

 蓮雲の瞳がまっすぐわたしを捉える。

「大丈夫、ヒナのピアノはボクにとって最高なんだから」

 蓮雲は此処だけに春が顕現したような温かい笑顔をわたしに向ける。

「ヒナはボクにお父さんを信じてみてって言ったよね。だから、今度はヒナがボクを信じてみてくれない?それで……これを受け取ってくれないかな」

 すると彼女は小さな箱をわたしの前に差し出した。

「これは?」

「開けてみて」

 受け取り、箱を開けると中にはショーウィンドウ越しに見かけた月のネックレスが入っていた。

「これって、あのお店の?」

「うん」

「そんな、わたしのために……」

「なーに、ゲームソフト一本買うのを我慢しただけだしさ」

 といつもの彼女らしく快活に笑う。

「ヒナ、付けてあげるよ」

 彼女はわたしの後ろに回る。首元あたりに触れる彼女の手がこそばゆく、緊張とは別種の胸の高鳴りを感じつつもネックレスが首から下げられる。

「あの……似合いますか?」

 彼女と向き合い訊ねる。蓮雲のぱっちりと見開かれた瞳から湖面に映る月のような優しい光がこぼれた。

「うん、ばっちりだ。綺麗だよ」

 わたしは時計に目を向けると時間が迫っているのに気がついた。

「ごめんなさい、もう行かなきゃ」

 蓮雲は無言で肯くとわたしは……蓮雲を抱きしめた。

「あっ、ヒナ……」

「ありがとう、蓮雲。わたし、あなたのことを想いながら演奏する」

「……うん、ヒナの演奏ボクは見てるからね」

「ええ」

 彼女の体温を充分に感じ、わたしは舞台裏へと移動した。

 ネックレスに触れる。

――わたしは独りじゃないんだ。

 自分のピアノを聴いてくれる人がいる。それが心強かった。

 そして自分が緊張していることに気付いた。さっきはそんな風に感じていなかったのに。蓮雲に励まされたからかもしれない。そう思うとなんとなく皮肉だなと感じた。

 舞台の幕が上がった。わたしは震える足で一歩を踏み出す。

 わたしはこの緊張に打ち勝って、蓮雲にわたしの音を届けるんだ。

 皓々と照明がわたしを照らす。

 客席に一度お辞儀すると拍手がわたしを向かい入れる。

 ピアノの前へ。緊張がさらに増してくる。

 けれど、今更引き返すという選択肢はわたしの中にはない。

 大きく息を吸い、そして鍵盤を叩く。曲はドビュッシーの『月の光』だ

 ホール全体にわたしの音が、気持ちが響き渡るように奏でる。

 こんな観衆に見られているのに普段の演奏以上に指が軽い。緊張感が高揚感へと昇華していく。

 蓮雲のことを思い浮かべながら弾くと心が穏やかになる。誰かを想いながら演奏することがこんなにも愉しいだなんて。

――そうだ、これだ。懐かしい……。

 この感覚は初めてピアノの弾いて以来の感覚かもしれない。

 純粋だった頃のわたし、いつの間にかそれを忘れて、ただピアノを弾くだけの人生になっていた。

 それとはもう、別れを告げよう。

 旋律が会場に溶け込み、そして静かに演奏を終えた。

 立ち上がりお辞儀する。会場に嵐のような拍手が鳴り響いた。

 ふと、観客席を一望すると、夜空を照らされた月のような彼女を見付けてわたしは微笑みかける。

 このときになってようやく、わたしは本当の自分の気持ちに気付いたのだ。


 早く行こうよ!、とわたしの手をぎゅっと握る彼女の手に少し足がもつれそうになる。

 猫のようなのにまるで大型犬に引っ張られている感覚がどこかおかしくて自然と笑みがこぼれる。

 時間は夜の6時をすでに越えており、日はもう落ちてしまっている。

 あの池へと繋がる道に夜桜が舞っている。どうしてかそれがわたしの気分が昂揚させる。日本人の性というものなのだろうか。

 春の風はまだひんやりとしていて数ヶ月前の冬を思い出させる。でも、もうコートもマフラーも必要ない。

 そして見えてきた想い出のベンチ。それはわたしたちを待っていたかのようにそこに佇んでいた。

 よっこいしょっと、と威勢の良い彼女の声とともにわたしたちはベンチに腰掛ける。

「えっとあんこは……たぶんこっちだ。はい、ヒナの分。」

「ありがとう、蓮雲」

 手渡された鯛焼きを受け取る。口の中にいつもの味が広がり幸福感でお腹と心が充たされていく。

「今年も同じクラスでよかったね!」

「ええ……でも、授業の科目が違いますからほとんどバラバラですけどね」

 学年が一つ上がりわたしと蓮雲はまた同じクラスとなった。けれど、わたしは文系、蓮雲は理系の授業を取る予定なので共通科目の体育ぐらいでしか会うことはない。

「ボクも文系にすればよかったかな」

「ダメですよ、蓮雲は就職する道を選んだのでしょう。それもゲーム関係の。理系の方が採用されやすいんですから」

「わかってるけど……」

「お昼とか、今みたいに一緒にいられるじゃないですか」

 それでも蓮雲はどこか不服そうな顔をしていた。

「ヒナはやっぱり文系の大学?」

「ええ」

「音楽の専門学校には行かないの?」

「それは……もう、いいんです。わたしの中ではっきりと答えがでたので」

「諦めるの?」

「いいえ、そういうことじゃなくて。今までのわたしはピアノの技術を磨かねばいけないと思い込んでいたんです。……あんな家庭でしたから。でも、気づけたんです。それだけが全てではないと」

 わたしが今まで締め付けられていたもの。それは家庭環境が原因だった。

「技術ではなく気持ちを、想いを届けないといけなかったんです。わたしは演奏の本質を理解していなかった」

 でも今は違う。

「それを気付かせてくれたのは……蓮雲なのですよ」

「そ、そうなんだ……」

 すると蓮雲は照れながら人さし指で頬を掻く。

「それに文系の大学に行くからってピアノは止めませんよ。第一候補の大学にジャズ研究会というのがあって気になってるんです」

「サークルなの?」

「はい。バンドを組んでライブをするとパンフレットには書いていましたね」

「へぇ、そうなんだ……ジャズ研究会ねぇ……」

 どこか歯切れの悪そうな言い方だった。

「あの、どうしたのですか?」

「ヒナって独り暮らししたいって言ってたよね」

「はい、その大学が今の家から離れているので」

 ……というのは建前で本当はあの家庭から距離を置きたかった。だから独り暮らしをしたいと思っていた。母にだけその話をしたらいいんじゃない、と言ってくれた。

「離ればなれになっちゃうね、場所も時間も……」

 わたしは大学、蓮雲は仕事。お互い時間が取れるかどうかわからない。

「今みたいに会えるのかな」

 彼女の顔はどんどんと曇っていくように見えた。わたしは何とかしてあげたいと思い、彼女の手を取る。

「確かに合うのは難しくなるかもしれませんが、きっと蓮雲となら大丈夫ですよ。わたしも努力はしますし、なによりわたしのピアノをずっと聴いて欲しいから」

「……っ!」

 時間が止まったように彼女は硬直し、そして微笑む。

「それは告白と受け取ってもいいのかい?」

 一瞬、言葉の意味がわからず、少しずつ咀嚼し、そして理解した。

 わたしは次第に自分がとても恥ずかしいことをしているのではないかと思い始めて身体がどんどんと熱くなった。

「あっ!えっと……」

「隠さなくていいよ。だって……」

 互いの指が絡み合い、蓮雲に優しい眼差しで見詰められ、

「ボクもヒナの音を聴きたいからね」

 彼女はまるで春陽に咲く花のように笑った。そして彼女の瞳は月のように輝いていて、とても美しかった。

 その瞬間、わたしの中で間違いなく何かが動き出した。

 胸に晴れやかな春の風が吹き、わたしの心を包み込む。

 彼女の全てを受け入れたいと思った。

「ええ、お願いしますね」

「もちろんだよ!でもまあ、そうだね。お互いにやりたいことがあるんだもんね。文句言ってられない」

 そう言って最後の一口となった鯛焼きを口にする。

「それにボクたちは親友……いや、恋人同士なんだからね」

 冗談めたく笑みを浮かべる彼女に

「はい、恋人同士ですもんね」

「うぇ!?ちょっと……!」

 慌ただしく狼狽え、顔は夜でもわかるぐらいに紅潮していた。

「もう……ヒナはどんな神経してるんだよ……」

「自分を偽ることはもうしたくないので」

 これは本心だ。気兼ねなく、自分の内をさらけ出せる相手。それが蓮雲という存在だ。

 恥ずかしそうにしながらも彼女は嬉しそうにわたしを見遣る。

「まあ、ボクもそろそろ自分の気持ちに素直になりたいしね」

 すると彼女はわたしの肩に頭を寄せる。たったこれだけのことで、どくん、と心臓が高鳴った。

 身体が触れ合い、自分の鼓動を彼女も感じているのだろうか。

 わたしはそれを願いつつ瞳を閉じる。

「ずっとこうしていたいですね」

「いいんじゃないかな。だってここはボクらの特等席だからね」

 優しい月の光に照らされながら、わたしは彼女とずっと一緒にいられることを祈った。

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Clair de Lune ~孤月の少女~ 虚ノ真 @marcotosin15

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