第2話 Chapter 2

「じゃあ、いただきましょうかね」

 蓮雲が両手を合わせたので、つられてわたしもいただきますをする。

 約束通りにわたしは蓮雲を食堂に誘った。直前まで申し訳なさそうにしているのを横目に、そんなことを気にしなさそうな性格なのに意外だな、と心の中で微笑んだ。

「でも本当にいいの?80円の鯛焼きとだとシーフードグラタンは釣り合わないよ」

「いいんです。わたしがそうしたかったので」

 蓮雲はシーフードグラタン、わたしはカルボナーラを注文した。

「あとで返してって言われてももう遅いよ」

 悪戯めいた猫のような口調で彼女は目の前にあるグラタンをスプーンですくい上げる。出来たてで湯気が絶え間なく放出されており、彼女は何度か息を吹きかけ熱を逃がす。少し収まったのを確認すると口へと運んだ。

「あつっ!」

「ああ!はい、水です」

 わたしはコップを蓮雲の前に置くと、彼女はサッと掴み水を口へと流し込んだ。

「ふひゃー、冷めたと思ったんだけどね」

「そんなに熱いのですか?」

「アツいよー、はい、一口どうぞ」

 彼女が湯気立つグラタンをわたしの目の前へとスライドさせる。こんがりと焼けた表面をフォークですくうとチーズの香りと共に湯気が立っていた。さすがにこのままでは火傷しそうだったのでわたしも何度か息を吹きかけ口の中へ。

「どう、アツいでしょ?」

 その言葉にわたしは首肯する。

 口の中でグラタンを転がし熱を逃がそうとする。確かに熱かったが、わたしには彼女ほどのリアクションをすることなく食べることができた。

「あれっ?あんなにアツいのに大丈夫なの?」

「わたしは大丈夫でしたね」

 海老のプリッとした身が噛んだときに口の中で弾ける歯ごたえが心地良い。クリームソースの癖のない味わいが、海老の甘味や椎茸の程よい苦味との相性も佳かった。わたしもこれにすればよかったかな、とつい思ってしまうほどの味だった。

「とても美味しいですよ」

「そっかー、ボクはアツいのが特別苦手だからね~。ホットミルクも飲むのにどれだけ時間が掛かることやら」

 そういうところも猫っぽいのだな、と思わず笑ってしまった。

「あっ!笑われた!くっそー」

 彼女はさっきよりも長く強く息を吹きかけ口へ運ぶもやはり苦しそうな表情をした。

「いやいや、やっぱりアツいよ。なんでだろ、冷まし方かな~」

 すると彼女はわたしの前にグラタンを乗せたスプーンを差し出すと、

「ねえ、ふぅふぅしてくれる?」

 と言った。

 一瞬意味が理解できず、色々思案したけれど答えは一つしか出せなかった。

「えっ、わたしがするんですか!?」

「うん、そうだよ」

 わたしの反応にニヤニヤとした表情で彼女は答えた。

「その……変わらないと思いますけど」

「そっか、してくれないんだ」

 しゅん、と蓮雲の表情が萎れる。

「あっ……」

 か細い声がわたしの口からこぼれる。

 せっかくの厚意をわたしは無下にしてしまったのではないだろうか。これは彼女なりのコミュニケーションなんだ。

 気の毒に思ったわたしは慌てて彼女の手を掴む。

「お、ちょっ!」

 髪をかき上げ、冷めますようにと願いを込めながら、二度三度と長くゆっくりと息を吹きかける。

「これでどうでしょう……」

 啞然とした彼女の表情。いつものような捉えどころのない顔はそこにはない。困惑したような蓮雲の姿。

 もしかしてわたしは読み間違えた?彼女なりの冗談だったのかもしれないという考えが過った瞬間、身体の芯からマグマが吹き出るかのように熱くなった。

「あっ、ごめんなさい!余計なことを……」

「い、いや……ボクの方からお願いしたことだからね」

 戸惑いつつも蓮雲はグラタンを口に入れる。熱そうにしている様子は見られない。

「うん、ちょうどいい感じの温かさだ」

 彼女の多幸感に包まれたような顔に一安心した。

「やっぱりヒナには特別な力が宿っているんだね」

「ふふ、そんな力ありませんよ。それを言うなら蓮雲の方がありそうですけどね」

「そう思う?だったら嬉しいな~、ゲームだとよく魔法使い系のキャラを使うからね」

「ゲーム……ですか」

「ヒナはゲームやんないの?」

「あんまり……ですね」

 記憶を思い返しても自分が遊んでいた記憶はほとんどなかった。妹が好きでよく遊んでいたが、わたしは隣で見ているだけだった。わたしは下手だったこともあり、どちらかというと自分でプレイするよりも見ている方が好きだった。

「そっかー、一緒にやれたらなって思ったんだけど……夜中に通話しながらさ!」

「夜遅くまではちょっと……だからいつも授業中寝ているのですか?」

「そうだよ。なぜなら、ボクはプロゲーマーを目指してるからね!」

 蓮雲は誇り高い騎士のように胸を張り、勇ましい声色で答えた。

「そういえば、ネットとかゲームに精通している女性ってたまに“ボク”って言い方しますよね?」

「ボクっ娘ってやつだよ。キャラ付けって意味もあると思うけど、ボクはちょっと違うかな」

「どう違うのです?」

「ネットで自分が女性だってバカにされないためかな。たまにいるんだよ、女だからって下に見てくるアホな男がね」

 蓮雲は心の底からの憎悪を吐き捨てるように答えた。

「馬鹿にされないぞ!って感じかな。あまり意味はないかもしれないけど、他人に自分の価値観を押し付けられたくないんだ。これが“ボク”だからね」

 蓮雲から確固たる鋼のような意志を感じ取った。彼女は自分の存在意義をすでに見出しているのかもしれない。同じ年だと思うと少し自分が情けなく思った。

「世の中にはそんな人もいるからヒナも気をつけなよ!」

「ネットで男性と知り合うことなんてないと思いますけど、肝に銘じておきます。でも、深夜までゲームはあまり感心しませんね」

「ええ~、ボクの唯一の特技なんだけどなぁ」

 拗ねた子供のように蓮雲は頬を膨らませる。

「でも、ちょっと羨ましいなと思いますよ。わたしにはそんな特殊な能力も強い意志もありませんから。わたしは平々凡々な人間です……」

「そんなことない。ボクは知ってるよ」

 蓮雲は穏やかな表情でわたしを見詰めた。

「ヒナにはピアノがあるじゃないか」

「えっ」

 不意の言葉にカルボナーラを巻き付けるわたしの手が止まる。

「ほら入学した初めの頃、二人で部活見学したじゃないか。その時に音楽室でピアノを弾いてたでしょ」

 そういえばそんなこともあったかな、と遠い記憶が蘇る。

「また聴きたいな、ヒナのピアノ!」

「そんな……わたしのピアノなんて……」

 わたしは視線を上げることが出来ず、ぐるりと巻き付けられ渦のようになった先端を見ていた。そうしていると飲み込まれてしまいそうな錯覚を覚える。

 大した音など奏でられない。妹と比べたらわたしなんて……。

「謙遜だなあ、ボクからしたら充分な実力のある人だと思ったよ」

 これ以上わたしは会話を続けることが出来なかった。言葉が頭に浮かばない。どう断れば良いのだろう……。

「ねえ、お願いだよぉ!一回でいいから!」

 あっ、と情けない声が口から漏れる。

「……なら、一度だけ……」

 無邪気な彼女の願いの圧に負け、わたしはつい約束を交わしてしまった。


 ピアノの前に立ち、蓋を開くと白と黒の鍵盤が姿を見せる。わたしはピアノ椅子に座ると、スカートの裾を正す。蓮雲はピアノの真後ろにある丸椅子に腰掛けわたしの背中を期待に胸を膨らませているような瞳で凝っと見詰めている。

 蓮雲のこの熱い視線を、わたしは後ろめたく感じてしまっていた。

 一音試しに弾いてみる。ストッと白の鍵盤が沈み込み、ピアノの緊張感をはらんだ音が音楽室全体に響き、乾燥した空気がより一層張り詰めたように感じる。調律が少しずれている。専門学校ならきっちりと調整されているだろうが私の通う普通の高校ならこの程度のズレでも問題はないだろう。

 腕を伸ばし、鍵盤に触れると少しひやりとしていた。

「では、いきます」

 そしてわたしはクロード・ドビュッシーの『月の光』を奏でた。この曲はわたしのお気に入りの曲だ。理由は自分に似ていると思っているからだ。

 月明かりの下、月とわたしだけしかいない世界。これ以上何も存在しない夢のような空間。幻想的な旋律がわたしの心を落ち着かせ、心配いらないんだと感じさせてくれる。

――でも……技術ではあの子に勝てない……。

 突如よぎった言葉は急に降り出す夕立のようにわたしの心に雲が陰る。

 こんな音はあの子の前では音楽とは言えないものだ。

 誰もわたしを見てくれない。

 覚束ず、タッチが安定しなくなる。自分自身の指が煩わしいものに思えてくる。

 以前クラスメイトたちの前で演奏したことがあった。でも、彼女らの賛美の言葉をわたしは信じることが出来なかった。

 お世辞を言われている、と猜疑心がわたしに語り掛ける。

 その思想がどんどんと自分が惨めにさせる。

――本当はそんな風に考えてはいけないのに……。

 そして最後の一音が空気を振るわせ徐々に消えていく。

 わたしの背後からパチパチと手を叩く音にハッと顔を上げる。自分でも演奏が終わったことに気付いていなかった。

「いや~、やっぱりヒナのピアノは心に染みますなぁ」

 わたしは後ろへ振り向く。普段と変わらない凪のような彼女の態度。

「毎日聴いてたい、綺麗な音だったよ」

 彼女が賞賛の言葉を送る。

 けれど……けれど、わたしは素直に喜ぶことはできなかった。

 演奏しながらわたしはいつもあの子の影が頭から離れなかった。

 その影に怯えていた。

「本当に上手なんだね!」

「わたしの演奏なんて……妹と比べたら……」

「へぇ、妹もピアノやってるんだ」

「はい……とても出来の良い妹が」

 妹の話をするとどうしても正面を向くことが出来ずに視線が名だたる演奏家の肖像画が飾られている壁面へと流れる。

「ヒナも充分に上手いと思うけど」

「こんなんじゃダメなんです。こんな軟弱な演奏では……」

 劣等感でわたしの心を引き裂かれ、今にも鬱屈した感情をすべてをぶちまけてしまいそうになる。

「何かあったの?」

 わたしの表情に何かを察して彼女が心配するような声色で語りかけてきた。そして蓮雲はゆっくり、一歩ずつわたしに歩み寄る。

「前に公園で悩んでいたこと?話してみて、聞くよ」

「でも……解決出来ないものなんです」

「それはもう誰かに相談したの?」

 わたしは無言で首を横に振る。

「ヒナ、顔を上げてごらん」

 わたしは恐る恐る見上げる。

「前は無理に言わなくてもいいって言ったけど、でもそこまで思い詰めているなら……ボクに話して欲しい」

 いつもの彼女からは想像できない甘い囁き声が耳朶に届き、全身に染み込んでいく。 

 まっすぐと、清らかな月を思わせるような瞳にわたしは見入っていた。

 そしてどうしてだか、彼女になら話してもいいかもしれないと思った。

 膝の上でぎゅっと握りこぶしを作り、わたしは閉ざそうと決めていた口を開いた。

「……小さい頃から、父がピアノの講師をしていたのでわたしもピアノを習っていたんです。3つ下の妹がわたしの姿を見てピアノをやりたいと言い出して、妹も同じようにレッスンを受けるようになりました」

 あの頃の妹はわたしの後ろをテクテク付いてくる存在で、それは愛らしく可愛く見えた。

 このときは純粋にピアノという楽器が無限の可能性を秘めているものだとワクワクして、純愛の気持ちを演奏していたのだろう。

「でも、見る見るうちに妹は技術を付けるようになっていって、先に始めたはずのわたしをいとも簡単に追い抜いていった。そして何よりあの子には……絶対音感があった」

 音の高さを正確無比に聞き取れる能力。今後の人生、わたしがどうあがいてもこの能力はもう身につかない。わたしにはなくて、あの子だけは持っているもの。

 知らぬ間に握り込んだ爪が皮膚にグイグイと突き刺さっていた。

「差が開くにつれて父の態度は変わっていきました。わたしのことを……まるで見えていないかのように興味を失い、妹には愛情を注いでいた。母だけは気にかけてくれていて……別居も考えていくれていて、もうわたしの家庭は崩壊寸前なんです……」

 分裂しかかっていることは父も分かっているのだろうが、そんなことなどお構いなしなのだろう。父にはもう妹しか見えていない。

 父はプロのピアニストを目指していたらしい。けれど、夢破れ講師になった。妹は自分の夢を変わりに叶えてくれる存在だと思っている節があった。そんな父が怖かったし、滑稽に見えた。

「そうだったんだ……」

「でも、わたしにはピアノしかないんですよ」

 他に得意なこと、好きなことがなかった。……いや、出来なかったと言うべきかもしれない。他に興味を惹かれるものがなかった。

 使命感でピアノを弾いているのかもしれない。

「わたしは……音楽専門の高校に入学したかった。けれど、父に反対されて……。でも、あの子は今年入学試験を受けるんです」

 わたしはダメで、妹は受けられる。この事実を飲み込むことなんてできなかった。

 ここでわたしは確信した。父は完全にわたしに興味をなくしているのだと。

「わたしは……あの子が、試験に落ちればいいって思ってしまっている。……姉なのに最低です」

 浅ましい嫉妬だと理解していた。妹に罪はない。

 けれど、嫉妬せずにはいられなかった。

「父は……わたしがコンテストで一位を取ろうがもうどうでもいいんです。将来性のないわたしよりも優秀な妹がいれば、それでいいのだから……」

 好きだったピアノがいつの間にか忌むべきものとなっていた。好きだけど嫌いなもの。わたしにとってピアノはそんな存在になっていた。

 触れていると全てを忘れ、全てを思い出させる。

「コンテストで良い結果を得られようが、もうどうでもよくなってしまって……。なんのためにピアノを弾いているのかわからなくなってしまうときがあるんです。でも、わたしにはピアノしかない」

 今自分がどこにいるのか、どこに向かおうとしているのかわからない。覚束ない足取りで前にも進むことができない。たどり着こうとしている場所はそもそも存在するのだろうか。

 わたしは無理やりにでも笑顔を作り、蓮雲を見上げる。

「だから、わたしの奏でるピアノは蓮雲の言うような綺麗な音なんかじゃない。汚らわしい嫉妬と憎悪でできているんです」

 すると彼女は間髪入れず、そんなことはないと言った。

「ボクはそんな風には感じなかった」

「え……」

「だって、ピアノを弾いてるヒナの姿……愉しそうだった」

「愉しい……わたしが?」

「ピアノの音なんてボクにはよくわからない。いい音とそうでない音の比べ方なんてわからない。けど、ボクにはヒナの音が素敵だって思えた」

 彼女の細長く繊細な指がわたしの手を握る。

「誰かと比べるピアノじゃなくて、もっと自由に、君が奏でたい演奏をすればいいんじゃないかな。ボクはそんなヒナの演奏が聴きたい。それじゃ、ダメかな……」

 懇願する幼子のような瞳。

 月が照らす優しい光のようにまっすぐと見詰められる視線に温かいものを感じた。

「ヒナ、もう一度弾いてみて」

 指同士が離れ、わたしはマリオネットの糸で操られたかのようにもう一度ピアノと向き合う。蓮雲が隣に佇みじっと私を見ている。

「大丈夫、ヒナの音を奏でたらいいんだよ」

 すべてを許す聖母のような彼女の声音。その囁きがじわりと耳元から全身に染みる。

 そしてわたしはもう一度『月の光』を奏でた。

 最初の一音が部屋に響き渡ったとき、狭く感じていた白と黒の鍵盤が広大な海のように清らかに見えた。

 なぜだろう。指が軽い。何時もとは違う感覚。迷うこととのない指のタッチで鍵盤を叩く。

 緊張も不安もない。羽が生えたように自由を感じていた。

 ここにいてもいいのだと感じさせてくれる音色は、わたしの気分を高揚させる。ピアノを弾きたいという欲求が枯れた心から溢れ出す。

 どうして……何が変わったの。

 さっきとは何が違うの?

 もしかして、蓮雲が居るから?

 蓮雲の存在がわたしを変えたの?

 最後の一音が吸い込まれていくように消え、わたしは鍵盤からゆっくりと指を離し蓮雲を見遣る。

「蓮雲……」

「さっきよりも良くなってる!……のかな?」

 蓮雲は舌を出し嘲るように笑う。

「どこがどう良くなったっていうのはわからないけど……なんかさっきよりも良いと思うよ!」

 曖昧で雑な彼女の説明。だけれど、わたしの中で確かな感触があった。

「わたしも今までで一番手応えを感じました」

「そうなんだ!」

 自分でも何がどう変わったのかわからない。でも、それが蓮雲のおかげだというのはわかった。

「蓮雲!」

 わたしは自分でも意外なほど大きな声を出して彼女の手を握る。

「わぁっ!なに!?」

「これから……できれば毎日わたしのピアノを聴いてくれませんか?どうしてだか、蓮雲が傍に居ると上手く弾けるような気がするんです!」

 わたしには彼女が必要だと感じた。

 理由を知りたい。この感情がどこからやってくるのかを。

 その先に答えがあって、蓮雲が導いてくれるかもしれない。

 彼女は赤面し照れているようだったけれど、

「うん、もちろん!ボクも毎日聴いてたいしね!」

 彼女は朗らかで春のような温かい笑みで答えてくれた。

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