Clair de Lune ~孤月の少女~

虚ノ真

第1話 Chapter 1


 白と黒の鍵盤を指で触れる。少しの力を加えるとすっと鍵盤が沈み込む。

 この緊張感をはらんだ音がわたしは大好きだった。

 ピアノの音が耳へと届くとわたしは多幸感に包まれる。それがただの空気の振動だというのに、不思議なものだと思った。

 わたしの鍵盤を叩くタッチが次第に強さを増す。さらなる幸福感を求めて。高見へを求めて。

 最後の一音が月の光を思わせるような優しい音色を讃えながら消えていき、わたしの手は鍵盤から離れる。

 だけれど……わたしの承認欲求は充たされることはなかった。

 大好きだけれど、この音はわたしに居場所を与えてはくれなかった。

 たった独りの音楽室。

 それが見てくれだけの、辛うじて体裁を保っている家族を思い出させる。

 歓声を伴う拍手も、華やかな緞帳も降りることはない。

 劣等感を伴う演奏はさらにわたしを孤独にする。

 なぜなら、わたしはあの子には決して勝てないのだから。


「ねぇ、雛菊さん。そんな男どう思う?酷いでしょ!」

 わたしの名前、西野 雛菊を呼ぶ声が教室に響く。

 寒風が吹きすさびカタカタと窓を揺らす12月の初め。教室内に暖房器具があるとはいえ、膝にブランケットを敷かないと身体が冷えてしまうくらいに肌寒い教室。

 だけれど、級友の熱り立った声は教室の温度がいくらか上げているように思えた。

 そんな彼女をまあまあ、と言って落ち着かせる。

「彼氏さんに確認したのですか?一緒にいた女性が誰かって」

「聞いてない。……聞けないよ、そんなの。すごく怖いし、もし別れてくれって言われたら……」

 不安げに両手を胸の前に自分を抱きしめるように組む。

「彼氏さんの女性って見覚えはあるんですか?」

「ううん、ない。けど、仲良さそうだった。だって同じTシャツ着てたんだよ、ペアルックじゃん!だから余計に怖くて……」

 わたしは頤に手を当て逡巡し、

「同じTシャツって……もしかして兄妹とか、その可能性はないのですか?」

「……あっ、そういえば自分は次男だって言ってた!」

「でしたら一度ちゃんと話し合ってみてはどうですか」

「うん、上手くいくかわかんないけど……やってみる!」

 ありがとう、と言うと級友はハイウエストの学生指定のスカートを靡かせながら足早に教室を飛び出していった。

「相変わらずヒナには相談者がつきないね」

 わたしのことを“ヒナ”と呼ぶ前の席に座るクラスメイトが長い艶のある黒髪をなびかせながら、くるりと振り返る。

「あの子、先週も相談来てなかったっけ。別のクラスでしょ、迷惑してないの?」

「いいえ、頼られることに悪い気はしません。いつも歓迎してますよ。……あっ」

 わたしは彼女の背中まで伸びた黒髪に触れる。

「付いてましたよ」

「えっ、ああ、ホコリ付いてたんだ。ありがとう」

 わたしは立ち上がりそのホコリをゴミ箱捨てに行き席に戻る。

「しっかりしてるねぇ、雛菊さんは。そんな小さいホコリもちゃんと捨てに行くんだから」

「そう……なのでしょうか」

「そうだと思うよ。しっかり者でみんなの相談も聞いて。まるでお姉さんだ」

「ならもう少し身長は欲しいし、髪も伸ばしたいですね」

 あと3cm、せめて150cmは越えたい。髪型にしても今は内向きのショートボブカットだ。これではお姉さんと言うよりもお母さんに近いかもしれない。

 不意にわたしの左肩をツンツンと叩かれ、そちらに顔を向ける。

「雛菊さん、再来週のリコーダーのテストなのだけれど先生に抑揚を付けた吹き方をしろといわれて……強く弱く拭いてもダメらしいの。ねぇ、どうやればいいのかな?」

「あのねぇ、ヒナの専門はピアノだよ。それに、そういうことは先生に聞きなよ」

 彼女は呆れた様子でクラスメイトを見遣る。

 けど……、と言葉を詰まらせ居たたまれない表情を見せた。

「えっと、専門ではないのだけれど、わたしが思うに音を奏でるという気持ちが大事だと思っています」

「気持ち?」

「技術ももちろん大事ですけど、音に自分の気持ちをのせて相手に届ける。それを意識すると違ってきますよ」

「気持ちか……ありがとう、今度意識して吹いてみる!」

 そう言うと彼女は自分の席へと帰って行った。

――言葉にするのは簡単だけれど……。

 内心、自分は偉そうなことを言っているのでは、と思ってしまった。

 彼女へのアドバイスは本来自分への言葉なのに……。

「頼られてるね」

「いえ、そんなこと……」

「気持ちをのせる……か。さすがプロの言葉は違うね」

「プロなんかじゃありませんよ」

「私から見たらプロみたいなものだと思うけどな」

「そんな……わたしなんか」

 言われ慣れていない言葉にわたしは両手をワナワナと振る。

「謙虚だなぁ。今月末もコンサートがあるんでしょ。なかなか出られるものでもないのでしょ?」

「まあ、そうかもしれませんが……」

「不安なことあるの?」

「不安というか……」

「悩み?ヒナも悩み事とかってあるの?」

「悩み、ですか……」

「おっ、あるなら相談乗るけど」

「……いえ、考えたんですけど思い浮かばないですね」

 そう、と言った瞬間、呼び鈴が鳴り休み時間を終えたことを知らせる。担任の先生が姿を現しわたしたちは前へと向き直る。

 わたしは内心ほっとした。彼女に深掘りされなかったからだ。

 本当のことを言えば悩みは、ある。

 でも、こんなことを話して何になるというの?

 言えない。わたしの悩みは誰にも……。

 と、背中に何かが迫るような圧を感じた。

 見られている?

 背後から妙な気配を感じた。凝っと見詰める狩人のような視線。

 ハントされる子羊のように恐る恐る顔だけを振り向ける。

 けれど、誰とも視線が合うことはなかった。

――気のせいだったのかな……。

 

 授業もホームルームもこなし、学生の今日という一日が終わろうとしている。

 あとは家に帰るだけ。校門を抜けると12月の初めとは思えないほどの冷たい風が頬を切り裂かれたような錯覚を感じさせ、思わず両手で頬を包み込む。でも、冷えきった手はさほど温かさを感じさせてはくれなかった。

 わたしと同じように学生たちが群れを成して自分の家へ帰ろうとしている。途中、人だかりができ、活気に満ちあふれている鯛焼き屋を通り過ぎる。甘い食欲を誘う香りに振り返りそうになるも手持ちの金額は必要最低限しかなかったので我慢するしかなかった。

 その先のコンビニを右に回ればいつも利用している駅が見えてくる。だが、そちらに歩が進むことはない。反対方向の左側、公園の入り口へとわたしは吸い込まれていく。

 公園の大通りを進んでいくと身を寄せ合うように歩いている年配の夫婦、遠くでは缶蹴りに興じる小学生と思われる子供たちが目に入る。

 さらに奥へ進み開けた場所に出ると、大きな池が見えてくる。ちょうどこの公園の中央にある池だ。池沿いに歩いていると鯉が湖面から口を出しパクパクと動かしている。生憎今は食べ物を持ち合わせていたなかった。

 ポツンと一つだけあるベンチを見つけてわたしは腰掛ける。木製のベンチは外気に晒されていたせいでひんやりとしていた。わたしはその冷たさで身体が跳ね上がる。

 けれども、次第に身体が慣れてきたのか、お尻に感じる冷たさは幾分かマシになった。だからといって外の冷気に身体が慣れることはない。徐々に体温が奪われていくような感覚に襲われる。早く家に帰れば良いのに、と思う。

 でも、そんな気にはなれなかった。

――わたしは、何をしているのだろう……。

 家の中はきっと身体が温まる。だけれど、心の芯の部分はさらに冷え込むように感じていた。家族という存在が、たった一人でいるよりもさらに孤独感を覚えさせる。

 むしろこうして曇り空の下で頭を働かせず、冬場の匂いに浸っていた方が精神的に楽だった。

 秋を彩ったはずの色を失った葉っぱたちは木枯が吹き抜け何処へと飛び去り、四季が、冬が到来したのだと我が物顔で識らせているようだった。

――12月ってこんなに寒かったっけ……。

 陽が落ち、さらに気温は下がるだろう。このままでは凍えてしまうかもしれない。

 ……いや、いっそうのこと凍えて死んでしまおうか、と脳裏によぎった。

 わたしが死んでもお父さんも、お母さんも困らないだろう。

 だって、二人には妹の“桜”がいるのだから。

「――ねえ、そこボクの特等席なんだけど」

 不意に耳元で少女の声がして、あまりの至近距離だったので心臓と身体がビクリと跳ね、わたしはベンチから飛び上がった。

「おっと、君も驚いたらそんな顔をするだね」

 意地悪な笑みを浮かべながら少女は私を見詰めている。

 ツンツンとした黒猫を思わせるショートヘア。ボレロ風のプリーツの入りのハイウエストスカートにシックなデザインのコートを羽織っている。髪の毛もスカートもコートも黒一色で統一されたモノトーンの少女は今のわたしと同じ服装だった。

 さらに少年のような容姿の彼女にわたしは見覚えがあった。

「青木さん、でしたか……」

 同じクラスの青木 蓮雲が口の端をほんの少し吊り上げる。

「西野さんにボクの場所取られちゃったなぁ~」

 からかうようにわたしの顔を覗き込んでくる。

「あっ、ごめんなさい。どうぞ」

 わたしは一歩下がり、青木さんに席を譲る。

「いやいや、冗談だって。西野さんは真面目だなぁ」

 彼女がベンチに座りわたしの顔を見たまま片手で猫のように手招きする。もう一人は座れるように彼女はベンチの端に身体を寄せている。

――座れってことかなぁ……。

 さっきからバクバクと収まらない心臓を抱え込むように、こじんまりといった風にわたしは彼女の隣に腰掛ける。

「なに、ボクに緊張しているの?」

 顔を近づけながら青木さんは気兼ねなくわたしに話し掛ける。

 どうしてこんなにも話しかけれるのだろう。入学した最初の方に部活見学を少しの時間共に回ったくらいだ。同じクラスだったものの、それ以降はお互いに別のクラスメイトと知り合い、時折、事務的にしゃべることはあっても二人でこのように話す機会はなかった。むしろわたしは避けられていると思っていた。

「西野さんもここでお昼寝かい?」

「ええっ!いや、こんなところで寝たら病気になってしまいますよ」

「はは、だよねぇ。ほんと寒くなったよ。ちょっと前まではここでお昼寝できたのに、急に気温が下がってさ。今ここで寝たら凍え死んじゃうよね!」

 青木さんは嘲るように笑う。彼女のつかみ所のない話し方が嫌い……というわけではないが、苦手意識はあった。

 だから、彼女と距離ができてしまったのかもしれない。

「さすがにボクもここでは寝れないかな」

 そして彼女は間違いなく少女の声で、“ボク”という一人称を使う。それがある意味では彼女を彼女らしくさせているのかもしれない。

「寒いと分かってはいたけど、ここはボクのお気に入りの場所だから。寄ってみたら、まさか先客がいるなんてね」

「いつも、ここに?」

「うん、お昼ご飯食べた後とかにここでね。お腹を空に向けてお昼寝すると気持ちいいよぉ~」

「それで5限以降授業に現れないときがあるんですね」

「だってお腹が満たされたら次は睡眠欲を充たしたいじゃないか。もう眠たくて眠たくて。でも、今日は寝ない変わりにこれをね」

 そう言うと彼女は手に持っていた小さな袋から鯛焼きを二つ取り出した。通学路の途中にある鯛焼き屋と同じ匂いが漂い心を躍らせる。羨ましいと思うも顔に出さないように耐える。

「あんことカスタード、どっち派?」

「えっ?」

「どっち食べたい?」

 彼女は二つの鯛焼きをわたしの前に差し出す。

「い、いえいえ、いただけません!」

「遠慮しない、遠慮しない。さあ、選んで」

 前々から件の鯛焼き屋は気にはなっていたが食べたことはなかった。学校の校則で禁じられているわけではない。ただ、お金がないのと鯛焼きを食べてしまうと夕食が食べれないという理由だけだった。

 ほんのり湯気立つ鯛焼きの香りが鼻腔をくすぐる。小腹も空いてきている。すごく食べてみたい。

「……では、あんこの方を」

「おっ、西野さんはあんこ派でしたか!」

 わたしは鯛焼きの誘惑に負けてしまい、彼女から鯛焼きを受け取る。

 青木さんが一口食べるの横目で見詰めていると、

「冷めちゃうから食べなよ、とっても美味しいよ」

 促されわたしは鯛焼きの頭部分をパクリと頬張る。焼きたてでホカホカと温かく、あんこの甘すぎない絶妙な風味が口の中に広がる。脳がもう一口、と要求しわたしはそれに従うしかない。

「いい食べっぷりだね。美味しいでしょ」

 彼女の意見にわたしは首肯する。

 夕食前に食べるという背徳感は不思議とわたしに満足感を与えた。それに鯛焼きのお陰で幾分か身体が温まった。

 わたしよりも勢いよく食べる彼女は最後の一塊を口に放り込み、手についた鯛焼きのかけらをパンパンと払う。

「でさ、なんでこんなところに一人なの?」

 不意に彼女が切り出してきた話題に食べかけていた手を止める。

「それは……」

「悩み事?」

 わたしの心を読んでいるような発言にドキリとする。

「さっきのホームルームの時間……たまたま聞こえちゃったんだ、浮かない顔をしていたしね」

 そうか、背中に感じていた視線はおそらく彼女のものだったんだ。けど、顔を覗いたわけじゃないのに、よく観察しているなと思った。

 彼女の質問にわたしは言い淀み、俯き靴先を見詰める。

「悩みがあるならボクに言って!……なんてね。ボクに言うくらいなら他の子にとかに話してるよね」

 気の抜けたように話しながらベンチの背にもたれかかる。

「あっ、大丈夫、大丈夫。無理に聞き出そうとか全然ないから」

「えっ、ええ……」

「まあ、話してくれたら嬉しいなー、ってぐらいには思ってるけどね。……でも、本当に言えない悩みって、仲が良いとか、信頼してるとかの理由でも話せるわけじゃないからね」

 いつも飄々とした彼女からは想像できないような達観した目でここではない何処かを眺めていた。

――この人もこんな顔をするんだ。

 見たことのない表情にわたしはまじまじと観察していた。すると、わたしの視線に気付いた彼女は顔をこちらに向けニヤリと笑う。

「そんなに見詰められると照れるね」

「あっ、ご、ごめんなさい」

 下品なことをしてしまったと思い、わたしは目を反対側そらした。

「でも、悩みがあるなんて意外だなとは思ったよ。西野さんは聞き上手だし、いつもみんなから悩み相談受けてたもんね」

「昔から人が話しているのを聞くのが好きでしたからね」

「みんな頼りにしているもんね」

「いえいえ!それはみなさん言い過ぎですよ」

 恥ずかしくなりわたしはパタパタと両手を振ると、青木さんは朗らかに笑った。

 まるでここだけに春が顕現したかのような彼女の笑顔に、僅かだけれども、心がほぐれてゆくのを感じた。

 もちろん彼女に悩みを相談したわけではない。けれど知ってくれている、というだけでも幾分か気分が楽になった。

 そっか、と言い彼女は太ももをパシンと叩いて立ち上がる。

「それじゃあ、帰ろうかな」

「あっ、あの!」

「ん?なに?」

「鯛焼きごちそうさまでした。あの……できればお礼をしたいんですが……」

「お礼……って?」

 小首を傾げ、不思議そうにわたしの顔を見遣る。

「明日のお昼休み、わたしと一緒にどうでしょうか?その……ご馳走させてほしいんです」

「いやいや、それは悪いよ!この鯛焼き一個80円なんだし。それじゃあ割に合わないよ!」

「わたしの話を聞いていただけましたし……」

「と言っても1ミリも内容知らないけどね」

 このままではいけない。鯛焼きまでご馳走してくれて、わたしに気を遣ってくれた。何かお返しをしないと失礼じゃないだろうか。立ち上がり彼女と向き合う。

「わたしは構いませんから」

「でもなぁ……」

「それでもいいですから」

 わたしはグイッと身体を彼女へと寄せる。

 すると、真ん丸とした月のような瞳が目の前に広がる。

 すべてがモノトーンに包まれた少女。だけれど彼女の目は満月のように光を讃えていた。

 一体わたしは、今どんな顔をしているのだろう。

 どうして彼女はこんなにも無防備な顔をしているのだろう。

 まるで四つ葉のクローバーを見つけた幼子のような顔。

 何が彼女をこんな顔にさせてしまったのだろう。

 一体どうして……。

「……じゃあ、お言葉に甘えようかな」

 ポリポリと照れくさそうに頬を掻く。彼女の言葉にハッと意識を戻す。

「是非、青木さん!」

「ああそれと、ボクのことは蓮雲って呼んで。そっちの方が聞き馴染みが良いから。ちなみに、“さん”はいらないからね」

「いいのですか?」

「うん、もちのろんだよ。ヒナ」

 蓮雲に名前で呼ばれると、何故だか他のクラスメイトに呼ばれるのとは別の感覚、不思議な充足感に包まれてそれはとても心地好く感じた。

 

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