むさしの純情うどん物語

mirai

むさしの純情うどん物語

「この程度のうどんしか打てない小娘、うちの息子には相応しくありません」


 言葉は呪いだ。人を救う力もある。しかし時に、身体の内側から無限に打撃を与え続ける鉛玉にもなる。今のアサにとってのそれは後者だった。


 幼馴染のユウとの結婚が決まったのは年の暮れ。アサは物心ついた時からユウと遊んできた。春には野川で魚を釣り、秋には銀杏いちょうの樹の下で木の実を投げ合った。兄妹のように毎日を過ごす二人。恋に落ちるのは必然だったのかもしれない。成人を迎えたアサにはいくつも縁談が持ちかけられたが、彼女はすべて断っていた。見かねた母親はユウの母に直談判し、ついに縁談の場が設けられたのだった。アサは舞い上がった。ユウの母が訪ねて来るまでは。


「あなたの手打ちうどん、食べさせてちょうだい」


 母の手伝いこそすれ、一人でまともに料理をしたことがなかったアサ。慣れない包丁を握り、適当な塩梅で味付けをした料理が美味いわけがない。

 つゆを一口すすった瞬間、ユウの母の眉間にひとすじの太いしわ。箸を置き、火照ほてった顔で押し殺すように冒頭の言葉を吐き出した。


「うちの息子には相応しくありません」


 翌日になっても、アサの脳内にはその言葉が鳴り響いていた。家の裏の川沿いに腰かけ、袖で涙を拭う。この冬晴れの空のような大らかな性格は母譲りだが、料理の才能は遺伝しなかったらしい。


 ”武蔵野の女は美味いうどんを打てなきゃ嫁に行けない”


 昔から母にそう言われて育った。しかしアサはその言葉を受け入れきれなかった。ユウと私には料理以上の絆がある。うどん一杯作れないからって、どうだってんだ。

 落ち込むアサのもとへ、近所の子ども達が面白半分で話しかけてきた。


「おい、アサ姉。結婚できなくなったらしいな」


 小さな村だ。噂が広まる早さ、まるで雷の如し。アサは子ども相手に負けじと言い返す。


「あんた達には関係ないでしょうが」

「料理できないんだって?」

「女だからって料理できて当然だと思うなよ!この餓鬼がきども!」

「わー、アサ姉がおこったー」


 子どもらは笑いながら散り散りに逃げた。

 叫んだら気持ちが少しだけ落ち着いた。悩んでも始まらない。料理ができないのは事実だ。できるようになるには練習しかない。

 その日の夜。アサの母は、ざるに盛りつけた麺とお椀いっぱいの汁を机に並べた。鰹出汁かつおだしの香ばしい匂いが部屋を包み込む。


「さ、味わって食べなさい」


 手打ちうどんは特別な日に食べるご馳走だった。正月の親戚の集まり。誰かが結婚する時。亡くなった時。人が集まる日に村人総出で麺を打つ。そして皆で食べる。


「今日って何か特別な日だっけ?」

「アサが『料理を教えて』だなんて、特別な日以外の何よ」


 へへ。と笑ってごまかし、アサは目の前のご馳走を眺めた。

 濃く深い琥珀こはく色の汁。恍惚こうこつと輝く茶色がかった太い麺。アサは箸で麺をすくい、汁に浸し、絡ませる。フ―フーと湯気を飛ばし、汁と一緒にずるっずるっと吸い上げた。口内に広がる香ばしい匂い。この甘さは何だろう。ゴツゴツした太い麺は強いコシがあり、噛み応えがある。しあわせ・・・その感覚以外はすべて麻痺していた。


「この一杯は、武蔵野の歴史そのものなの」


 母の声でアサは我に返った。


「どういうこと?」

「このあたりは昔、枯れた土地だったの。雨が降っても池はできないし、大きな川もない。だから農業もできなくて、村もなかった。そのうち川が引かれて、米は無理でも、小麦なら育てられるようになったの。その小麦をたっぷり使って作るのが、この手打ちうどん。だから茶色ぽいでしょ?」

「なるほど」

「汁にはかてっていう野菜を入れるの。今の時期は長葱が美味しいから一緒に煮て、甘みを出す。季節ごとに食べ方を変えるのも、この料理のおもしろいところね」


 そんな歴史や工夫があったなんて。アサは目の前の料理をまじまじを見つめた。


「私、このうどん作れるようになりたい」

「やる気がみなぎってるわね」

「作れるようになって、毎日食べたい」

「あんたね・・・」


 母は苦笑いを浮かべたが、アサは本気だった。でもそれだけじゃない。『武蔵野の女は美味いうどんを打てなきゃ』という教えなんて正直、どうでもいい。自分の料理で喜ぶユウの顔を見れたらどれほど幸せだろう。そう考えるアサを母はからかう。


「まったく。恋は人を変えるのね」

「うるさいやい」


 アサは顔を赤らめながら残りの麺をズルズルと平らげ、残った汁も飲み干した。

 翌朝から修業が始まった。包丁の持ち方に始まり、食材の切り方、母特製の汁の味付け。しかしアサが苦労したのは麺作りだった。

 武蔵野うどんの最大の特徴である、太麺。武蔵野台地で収穫された小麦から作られるうどん粉を、水加減に注意して練っていく。生地がまとまったら風呂敷で包み、足でどんどん踏みつけコシをつける。麺作りに力は不可欠。しかしアサの体重では、どれだけ踏んでも思うようにいかなかった。


「散々男の子を蹴って泣かしてきたのに、麺になると下手なのね。でも安心なさい。実際、麺を打つのは男たちだからさ」

「え、本当?」

「男の子も『うどんを打てない婿は恥ずかしい』って言われて育てられるの」

「嫁にいけない、じゃなくて?」

「女の子はね。つまり皆でうどん作りに参加しなさい、ってこと。それくらいこの地域ではうどんが大切な食べ物なの。他所よその村から嫁をもらう時には村人たち総出で作るじゃない?各々得意なところを分担して」


 アサはハッとした。もしかして私、麺を打つ必要ないんじゃ?その思惑を見透かした母親が戒めた。


「安心しちゃだめ。あんたも麺を打てるようにならなきゃ。全ての工程をできるようになって初めて協力できるの」


 アサは肩を落としつつ、いつか皆と協力してうどんを作る日を想像した。うどんは人を結ぶ、絆の食べ物でもあるんだ。


 冬が過ぎ、春が来た。武蔵野の地にアズマイチゲやニチリンソウの新しい命が芽吹き始める。アサはうどん作りと嫁修業に努める日々を過ごしていた。掃除や洗濯、裁縫。結婚したらユウにも手伝わせてやる。そう決めていたアサだったが、まずは義母のお目に叶わなければ、その企ても泡と消えてしまう。

 アサの母はユウの家に何度も出向き、再び料理を振舞う約束を取り付けてくれた。ついに今日はその日。アサと母は玄関でユウの母を迎え入れた。今回はユウも一緒だった。


「ユウ、あんたも来たの?」

「こら!ユウさん、でしょ?お義母さんの前でみっともない。すみませんね、不束な娘で」


 小さな座敷机をはさんで両家が向き合う。ユウはどこか居心地が悪そうだ。重苦しい空気の中、口火を切ったのはユウの母だった。


「あんな料理を出したら今度こそ破談ですので」


 ギョッとする母親と対照的に、アサは冷静だった。覚悟はできている。むしろ義母の宣戦布告に、煮えたぎるような挑戦心を掻き立てられていた。


「さっそく調理してきます。お義母さまとユウさんはお茶菓子でも召し上がっていてください」

「いえ、私もご一緒していいかしら?あなたの調理を見させていただきたいわ」

「もちろんです」


 ユウの母と一緒に台所に入ったアサは、調理台を見て絶句した。昨日仕込んだ麺にねずみが群がっていたのだ。あわてて追い払って見ると、包んでいた布は食い破られ、麺にはかじり跡が残っていた。

 入り口に立っていた義母は戸惑うアサを黙って見ていた。まるで、この状況をどう打破するかを品定めするかのように。

 アサの額にはじんわりと汗が浮かび、指先はかすかに震えていた。絶体絶命だ。力がなくても、時間をかければそれなりの麺を打てるようになった。しかし鼠がかじった麺を出すわけにいかない。

 その時、窓の外で遊ぶ子ども達の声が聴こえた。暢気のんきで楽しそうな声。この絶望的な状況もすぐに餓鬼どもの笑いの種になるのだろう・・・

 その時、アサはあることを閃いた。これならいけるかもしれない。台所に義母を残して外へ飛び出し、子ども達に向かって叫んだ。


「あんたたち!手伝ってほしいことがあるの!」

「えー、やだ。なんかくれんの?」


 そう言ったのはいつかアサを馬鹿にした子どもだった。よりによってこんな時に。しかし背に腹は変えられない。アサは覚悟を決めた。


「美味いうどんを食べさせてあげるから!」


 子どもを二人連れて台所に戻ったアサは、急いでうどん粉を練り始めた。そして子どもの一人を背負い、もう一人を抱きかかえ、そのまま麺を踏み始める。力がないなら、踏む人間の体重を増やせばいい。

 義母は驚いた表情で見ていたが、アサはなりふり構ってなどいられなかった。美味しいうどんをつくる。義母に認めてもらう。それでしかユウとは暮らせないのだ。

 ようやく完成した時には家中、鰹出汁の甘い香りに包まれていた。義母とユウの前に料理を並べる。


「時間がかかったのは仕方ないとしましょう。大切なのは味ですので」


 義母は静かに汁をすすった。そして麺をたっぷりと汁に絡ませ、口へ運ぶ。アサは緊張した面持ちでその姿を見守った。これから自分の人生が決まるのだ。お茶を一口飲んだ義母はアサのほうを向き、口を開いた。


「アサさん、上達したわね。美味しいわ」


 隣に座る母の肩が震え出した。顔は見えないが、涙を流しているのは伝わってきた。義母の隣でうどんを食べていたユウも口を開く。


「アサ、うまいよ」


 アサの頬に、つーっと流れるひとすじの涙。こんな喜びを感じたのは初めてだった。同時にあふれる母親への感謝の気持ち。義母が再び口を開く。


「うちの旦那にも食べさせたいわ」

「はい、もちろん!」


 アサはすかさず答えた。緊張から解放されたからか、普段のあっけらかんとした調子で続ける。


「あ、でも子どもを背負わなきゃなので、まず子づくりから・・・」


 義母はまん丸と目を開いた。アサの母は「やってしまった」と頭を抱える。ユウは顔を赤らめてうつむいた。

 窓の外には桜の新芽。太平洋から吹き込むやわらかな風が、武蔵野の台地を春色に染め始めていた。



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