神田川

@m0nn0

第1話

 露天風呂に肩まで浸かった。かすかに音楽が流れているみたいだ。おそらくクラシックのようだが、音量があまりにも小さく(あるいはお湯の流れる音と人々の話す声があまりにも大きいのかもしれない)、何の曲か聞き取れない。僕は目を閉じて、体の細胞ひとつひとつに湯の熱さが染み渡るのをただじっと待った。

 遠くで烏が鳴いていた。烏は温泉に入るのだろうか。羽が濡れて重くなったら、上手く飛ぶのは難しそうだ。でももしかしたら案外、しばらく風にさらしておけば大丈夫なのかもしれない。僕はお湯でふやけて柔らかくなった自分の体が好きだ。今の僕の皮膚は他のどんなときよりも弱く、無防備だ。烏のあの硬そうな嘴でつん、と突かれたらきっと一瞬のうちにはじけて、まるで湯むきされるトマトのように、柔らかな肉があらわになる。

 それなのに客は誰一人として、烏など気にしていないようだった。もちろんこの音楽に耳を傾ける者もいない。皆何かを話し合ったり、ときどき笑ったりしている。ある者は古代ローマの軍人について話しているかもしれないし、またある者は渋谷の雑居ビルに昔入っていたテナントについて話しているのかもしれない。すぐそばでは子供の笑い声が聞こえる。さっき僕が露天風呂に入ってきたとき、すぐ後に老人と、その孫らしき小さな男の子が手を繋いでやってきたので、おそらくその子だろう。その子はずいぶんと長いあいだ笑っていたが、相変わらず露天風呂は騒がしく、笑い声はそこに溶け込んでいった。

 僕は目を閉じたまま、ためしに小さく歌ってみた。曲は北原白秋の「からたちの花」。やはり歌は周りのざわめきにかき消されて、誰にも気付かれていないようだった。

 あの男の子は一体いくつだろうか。小学生よりももっと小さく見えるから、おそらく四歳、五歳といったところか。白秋の歌も、知らないのかもしれない。

 従業員の男性の「お待たせしましたー!」という声が風呂に響いた。見ると奥のサウナの清掃が終わったらしく、周りの客は待っていたかのように次々とサウナの方へ消えていった。あたりは一気に静かになり、男の子の笑い声も聞こえなくなった。

 お湯は絶え間なく流れ続けていた。さっきから流れていたのはブラームスの、ピアノ・ソナタ第三番だった。もしブラームスが今生きていたら、彼は今の世の中に一体どんな曲を残すのだろう?僕は風呂上がりに食べる、食堂のかき氷のことを考えた。食器の音とおばちゃんの声が響く、あの地下の食堂。イチゴ、レモン、メロン、ブルーハワイ。どの味にしよう?と心の中のブラームスに聞いてみた。ブルーハワイにしなさい、とブラームスは言った。なんだかちょっと意外だったけど、そうしようと思った。


✳︎


 露天風呂に肩まで浸かった。今日の湯は「絹の湯」と書かれていて、白く濁っている。水面が微かに揺れる。真っ白な水の中から僕のふたつの膝だけが、ちょこんと頭を出している。目を閉じると、周りが白かったせいか、瞼の内側はずいぶんと暗く感じられる。始めのうち、それによって僕の脳は少しばかり混乱する。けれども1分ほど目を閉じたままにしておくと、脳はやがて落ち着きを取り戻す。そして脳はだんだんと、この温泉の熱さに身を委ねはじめる。その頃になると全身の細胞も温まり始め、徐々に脳へと酸素を送ってゆく。

 いつの間にか瞼の中の暗闇には烏がいる。たぶん烏の鳴き声を脳が認識したせいだろう。真っ黒な闇の中に真っ黒な烏がいるので、僕はときどき烏がどこにいるかわからなくなる。でもこれもやはり目が慣れていないせいなのであって、一分間ほど我慢して見つめていると、やがてその姿ははっきりと認識できるようになる。

 気が付くと烏はこちらを見ている。目が合っていると、いまにも烏がこっちに飛んできそうな気がして、僕は思わず目を逸らしたくなる。でも目を開けているときとは違って、見るところを変えるというのができない。映画のスクリーンのように視界が固定されてしまうのだ。こんな事なら目を開けてしまいたいとも思うのだけれども、いま烏から目を離すのは危険な気がした。たとえこっちが烏を見失っても、烏のほうは僕をちゃんと目でとらえているのだから。

 すぐそばで子供の笑い声が聞こえた。すると烏は僕から目を逸らし、あたりを二、三度見渡したあと、最後にもう一度僕を見てから、どこかに飛んで行ってしまった。瞼の中は、ふたたび暗闇だけになった。

 暗闇が一体どこまで続いているのか、よく分からない。ここは一体どれ程の広さをもった空間なんだろうか。あるいは広さなど存在しないのかもしれない。僕は音の響きぐあいによってそのおおよその答えを確かめたくなり、ためしに小さく歌ってみた。しかし結局のところ、周囲の音が騒がしく、僕ですら僕自身の歌声がまったく聞こえなかったからである。

 従業員の男性の「お待たせしましたー!」という声が風呂に響いた。思わず目を開けると、どうやら奥のサウナの清掃が終わったらしく、周りの客は次々とサウナの方へ消えていった。薄暗い露天風呂から見たサウナは、その入り口から漏れる光のせいでとてもまぶしく、思わず僕はまた目を閉じた。瞼の中は、もう暗闇ではなかった。かわりにピンクや黄色、緑や青の光が、まるで花火のように視界を埋め尽くした。おそらくはサウナの光の眩しさで目がちかちかしているせいだろう。あるいは僕の脳が今、風呂上がりに食べるかき氷についての思考を開始したせいなのかもしれない。



✳︎



 露天風呂に肩まで浸かった。

 今朝は灯台のてっぺんが光っていた。そのとき僕は窓のそばの椅子に腰掛けていた。久しぶりに早く起きた朝だった。外はまだ薄暗くて、灯台の光だけが異彩を放っていた。

 僕は窓際の椅子に腰掛けたまま、キッチンにいる麻子を呼んだ。彼女はシュガー・トーストを焼いていた。僕らの家にはトースターがないから、フライパンで火加減をよく見ながらトーストを焼かなければいけない。

 まるで朝方のつめたいフライパンを熱するように、湯は僕の体を少しずつ、でも確かに温めていく。

 遠くで烏が鳴いていた。

 けっきょく僕らがここに着いたのは日暮れ前だった。もちろん僕が二度寝をしたせいだ。さすがに悪いと思って、わざわざ井の頭線に乗って露天風呂付きのスーパー銭湯まで来た。あいつは露天風呂が好きなのだ。

 トーストが焦げるからそっちにいけない、

と彼女が言ったとき、僕は少し腹を立てた。だって外は段々と明るさを増し、灯台の光は弱まっていたから。僕はその景色を彼女と一緒に見たかった。それは、僕らにとって、なにかとても重要なものごとに思えた。でも彼女はそんな僕に追い討ちをかけるように言った。

「それ、灯台じゃないよ。銭湯の煙突。べつにライト・アップされてるわけじゃなくて、鉄の部分に太陽の光が反射しているだけ」

そればかりか、せっかく早起きしたのに手伝いもせず外ばかり見ている僕に、呆れているようにさえ聞こえた。

 確かに僕らの住むマンションのすぐ近くには銭湯がある。彼女の帰宅が早い時なんかは、よく一緒に銭湯に行こうと誘うのだけど、けっきょく僕が面倒になってしまって(誘ったのは僕の方なのに)、彼女が一人で行ったりする。だからあんた煙突の事も知らないのよ、と責められそうな気がして、僕はこの灯台の話を諦めることにした。愚かな僕を馬鹿にするかのように、すぐそばでは子供が笑っていた。

 「お待たせしましたー!」という声が聞こえ、彼女がシュガー・トーストを運んできた。けれども声の主はもちろん彼女ではなく、露天風呂の従業員の男性だった。どうやら奥のサウナの清掃が終わったらしく、周りの客は次々とサウナの方へ消えていった。

 僕は砂糖の焦げた匂いが好きだ。今日天気いいね、と彼女は言った。彼女の機嫌が良さそうで、僕も何だか嬉しくなってきた。言われてみれば、いつのまにか空は明るくなり、雲ひとつない快晴だった。

 灯台のてっぺんはもう光っていなかった。そのかわり、薄暗かった町は太陽の光に包まれた。

 風呂を出たら、二人でかき氷を半分こして食べよう、と僕は思った。麻子にはたぶん、ブルーが似合う。

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