第25話 ステッキ

「奴とは君が話をする。私がやるのは奴の送り迎えぐらいかな――まあ、困ったことになったらなんとかするよ。それと、奴に私たちの名前は教えちゃいけない。妙な後腐れは嫌だからね」

「分かりました」


 エリアが杖を左手に持ち替え、右手に黒曜石を握った。拍子をとるように杖を底に打ちつけてさざ波を立てる。シルベソウが根から茎の先までを震わせ、葉の裏から白く光る粒を舞い散らせた。エリアが黒曜石で中空に大まかな人形ひとがたを描くと、輪郭に白い粒が寄り集まり、衣のひだや髭の房や顔の彫りを塑像のようにつくりあげていった。初めて目の当たりにした立ち姿は大きく、思わずたじろぎそうになりながらも、スフェンはハーツィグの前に進み出た。


「あの……ハーツィグさんでしょうか?」


 ややあってから低く気怠い声が「そうだ」と応じた。目が合った瞬間、スフェンは眉間の奥から突き出してくるような痛みを覚えた。握りしめた手の中に堅い感触が生じる。黒くねじくれた枝がそこにあった。


「僕、」


 名乗りかけて言葉を押しとどめる。


「僕のことを覚えていらっしゃるかは分かりませんが……これ、あなたからお預かりしたものです」


 ハーツィグの形を成す光の粒がちらちらと瞬く。スフェンはそこに小さな驚きを、そして怒りにしては空虚な感情の揺らぎを見てとった。


「大切なものだと思うので、お返ししに来ました」

「そうか。ご苦労なことだな」


 スフェンが両手で差し出た枝を、遊び飽きたおもちゃのように無造作に取り上げ、ハーツィグがそっぽを向く。スフェンは知らぬ間に視線を落としていた。焦りにも孤立感にも似た淀みが腹の底に溜まるのを感じる。


「用はこれだけか」

「あ……」

「そうだよ」


 答える前に駘蕩とした声があがる。エリアが隣に立っていた。


「退屈なところ邪魔したね」


 ハーツィグが鼻を鳴らした。億劫げな動きで踵を返すのを合図に、光の粒がほどけて霧散する。


「これでひとまず一件落着だ。眠くなってきたしさっさと帰ろう」


 エリアが再び黒曜石を宙に走らせる。


「スフェン、馬に乗ったことはある?」

「馬ですか? はい、何回かだけ」

「じゃあ君が前だね」


 スフェンは目をみはった。光で編み上げられた精悍な馬が一頭、目を真珠のように光らせて現れた。


「乗っていいんですか?」

「ちゃんと二人乗せてくれる子を探したから大丈夫さ。久々に走れるからって張り切りすぎてるかもしれないけどね」


 馬の鼻先や首をなでた後、スフェンは弾みをつけてまたがった。後ろに乗ったエリアが手綱をとる。


「裸じゃなくてよかったよ。さ、行こうか」


 エリアが杖で尻を軽く叩くと、馬がいななきを高くなびかせて走りはじめた。スフェンはたてがみをつかんで固まっていたが、少ししてから体の力を抜き、眉間の奥に意識を割いた。黄泉よりもほの明るい暗がりには折れた若木だけが立っていた。若木の悲鳴のような痛みは起きないものの、芯に刻まれた傷は楔の痕にも似て、いつ消えるとも永遠に残るとも知れなかった。


「エリアさん」

「なんだい」


 エリアの声は常と違わず穏やかだった。


「僕、ハーツィグさんの気に障ることをしてしまったんでしょうか」


 馬は耳を立て、伸びやかに脚を動かしている。


「どうしてそう思うんだい?」

「ハーツィグさんが枝を返してほしくなかったように見えて」

「そうかな。順番待ちでいらいらしてるか元々無愛想なのかと思ったけど……まあ、君が気にする必要はないさ」


 仕掛けたのはあっちだし、とエリアが言い添える。聞き返そうとしたところで均衡を崩しかけ、スフェンはあわてて身を縮こめた。頬をかすめた風は枯れた野原の匂いがした。

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