第20話 祭りのあと

 水差しの他にチュニックを持って屋上に出た。一着きりの上着を干すことになり、宿の主人に借りた古着に袖を通している。きんと澄んだ空気に頬を洗いながら、鉢植えの台の端にチュニックを広げた。しわを伸ばし、風に飛ばされないように陶器の破片を重石にする。ゆうべの騒ぎが思い出されてスフェンはかすかに笑んだ。


 朝から図書館に行く予定を変え、昨日の兄師見習いを訪ねることにした。渡すべき物はすでに懐に収めている。今日は晴れでよかったと心の中でつぶやき、梯子に向けかけた足が止まった。市場へ行く召使いたち、新聞の束を担いで広場に走る少女、忙しない往来の中に一つ、馴染みのない人影があった。足音も立たぬと思われるほどに落ち着いた歩みをこちらへ進めてくる。スフェンはそろそろと後ずさって梯子を降りた――人影の眼差しが獲物を探す蛇めいていることに気づいたので。


 エリアは玉ねぎのみが入ったスープに大きく首をひねり、支度を終えてからも「さすがにないと思う」とこぼした。帳場で船を漕ぐ主人には聞こえていないようだったが、スフェンは身をすくませながら玄関を出る。


「……じゃ、また後で」

「はい。お気をつけて」


 ゆらゆらと手を振るエリアの背中を見送ってから歩きだした。人気のない道を西へ折れ、体が恐怖に凝り固まった。十歩ほど先に人影が立っている。正面から陽光を受けていながら、深くかぶった頭巾のせいで表情がうかがえない。それでも両の目がほの暗く光り、真っ向からスフェンを捉えている。


「スフェン・エツ・ケレマンスさんですか?」


 かすれた女の声は尋ねるにしては確信に満ち、そして傲慢だった。無意味に感じつつもかぶりを振る。


「ご両親が心配されています」


 女が一歩ずつ近づいてくる。スフェンは迫られた分だけ後ろへ下がった。今の自分には武器も盾もない。些細な魔法でも受け流すことさえ困難だった。とすれば打てる手は限りなく限られている。


 脈を五つ数えた瞬間、来た道めがけて走った。角を過ぎてさらに足を速める。相手の視界から一瞬でも消え、少しでも距離を稼ぐ。護身魔法の教本を頭の中で繰り返しなぞった。的が見えなければ、動いて遠ざかれば、優れた使い手でも狙いをあやまつ可能性は高くなる――たとえ髪一本ほどだとしても。


 宿の前を駆け抜けると丁字路が迫る。どちらに行っただろう。賭けるしかない。豆粒のほどでもいい、あの背中が見えたなら。


「エリアさん!」


 東に舵を切った途端、体が大きく傾いで石畳に転がった。痺れるような不快感が体じゅうにまつわり、わずかな動きさえ封じられる。


「大人しくついて来りゃいいのに手のかかるガキだよ」


 やはり足音はなかった。いつの間にか女が頭のそばに立って見下ろしてくる。


「とっとと傷見せな。報酬を減らされちゃ困る」


 手首に冷たい指が絡みつく。手のひらや膝頭がひりひりと騒ぎはじめた。


「嫌です」


 とっさに手を引こうとしたがかなわない。


「嫌だ、まだ――」


 女が瞳孔を細く尖らせるや、叫びがしぼんで消える。喉を震わせ舌を動かしても囁くことすらできない。


「治したら縄は解いてやるから自分で歩くんだよ」


 忌々しげなため息の後に女が瞑目する。傷を癒すために意識を研いでいるのだと悟った。逃げるにはまたとない好機だというのに動きは封じられたままだった。もどかしさにのたうち回ることもわめき散らすことも許されない。ままならない。何一つ。小さな涙の粒がこめかみを流れ落ち、


「おや」


一声が縄をった。

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