第4話

 あの男は、どっかの地方の支店の女を罵りながら、自分の目の前にいるあたしを、狂ったように手荒く痛めつけた。あたしにひとしきり暴力を振るって疲れ果てた後、悪態をつきながら派手な服に着替えて外へ出かけていった。一念発起して新しい女を探しに出たのか、風俗でひとまずやり過ごすのか。……本当に、どうでも良いんだけれど。


 あの男に部屋中を投げ飛ばされまくった時、右腕をひねりあげられた姿勢で突き飛ばされて、思わず床に手をついたら、めきめきめきと嫌な感じの軋む音がした。そこからずっと、絶対にまずい感じの痛みがあって、なぜだか変な吐き気もする。そして動かせない。右腕に体重がちょっとでもかからないように、他のところが痛むのは仕方ないからできるだけ我慢して、すごく時間をかけて、何とか立ち上がる。お酒を飲み過ぎた時みたくふらふらしながら、洗面台に行って鏡を覗き込む。…………嘘でしょ、何これヤバい。顔の輪郭と皮膚の色の一部が変わっちゃって、こびりついた鼻血は赤黒いし、他のところは青ざめてて、みっともない化粧をしたみたいで、自分の顔なのにすごい気持ち悪い。これ以上鏡を見てられなくて、顔を背ける。


「…………コメットさん」


 あたしは、幻覚の召喚を試してみることにした。自然治癒力に期待できる範囲は、越えちゃってるような気もするけれど、せめてこの痛みだけでも治まってほしい。痛みさえひけば、その先は何とか頑張れなくもない気がする。逆に言うと、今がものすごく痛くて、前向きなことが何も考えられない。


「コメットさん! あたしを、助けにきて……!!!」


 この町のどこかを人知れず泳いでる、コメットさんに届くように、できるだけ大きな声をあげた。こうすることで、あたしはこの部屋にいても、コメットさんを呼び出せるはず。……でも、もしかしたら呼び出せないかも。空を飛ぶ夢を見る時に、何故だか飛べなくなる瞬間が必ず来るみたく、コメットさんはあたしを離れてしまったかもしれない。コメットさんに出会ってから、ここずっと忘れていた、先の見えない絶望が、胸によみがえり。あまりに苦しくて、思わず地面に崩れ落ちる。……すると。


 そこに。


 あたしの目の端を、鮮やかな朱金が、ついと横切った。慌てて目をやる。果たしてコメットさんは、室内でもあたしの元に降臨してくれた。あたしの肩口に寄って、繰り返しつつく動作をする。つつかれる度に痛みは薄らぎ、吐き気も徐々に引いていく。恐々腕を動かすと、支障なく動いた。安心と喜びで、思わず涙ぐむあたしをよそに、コメットさんはあたしの顔面をくすぐるように、長いことまとわりついたので、顔の痛みも引いた。それからコメットさんは、あたしの全身を丹念に撫でるように、ぐるぐると巡った。あたしの全身から痛みを食べて、いつもよりも傷の数が多かったからか、コメットさんはみるみる大きくなっていった。やがて、人間ぐらいのサイズに成長した。尾びれも同じぐらいに長い。


 コメットさんはもう、ちっちゃな金魚じゃなかった。大きさ的には、ソウギョぐらいかな? 幻覚って進化もするみたいだね。朱金の輝きも、強さを増している。もはや痛みはすっかり抜けて、同時に全身から力が抜けて、私は床に倒れ込むように伏して、死んだように眠った。閉じた瞼の向こうは、朱金の光が灯り続けて眩しかったけれど、安心を覚えて深く長く眠った。


 それから随分と経ってから、あの男が部屋に戻ってきた。半日か一日か程の外出中に、何か良い目にあったらしいあの男は、良い声で調子外れの鼻歌を歌いながら、部屋に入ってきた。そして、床からあの男を見上げるあたしを通り越し、その後ろに目を向けて、うわあっと間抜けな声をあげた。


「ばっ、化け物が、俺の部屋に……!?!」


 あたしにしか見えない、あたしの幻覚のはずのコメットさんが、あの男にも見えていることに、あたしはひどく驚いた。それと同時に、あたしを守ってくれる、あたしの中の素敵なものを、あの男が化け物呼ばわりしたことに、激しい恥辱と憤りを感じた。


「あんたなんかが、あたしのコメットさんを悪く言わないでよ……!!」


 あたしが叫んだ瞬間。人間サイズになっていたコメットさんは、優雅な動きで尾びれを一振りすると、あの男にぶち当てた。まるでコントのように、あっけなく勢い良く吹っ飛んだあの男は、少し前のあたしみたく、変な体勢で腕をついてしまい、呻いて転げまわる。その隙に、コメットさんは更に大きく膨張し、この賃貸の空間を埋めるぐらいにまでなった。シャチほどに成長して、神々しいくらいに眩い朱金の光をまき散らすコメットさんが、大きく口を開けると、あの男は悲鳴をあげて後ずさったけれど、コメットさんは躊躇なくあの男を吸い込んだ。そしてあの男は、コメットさんの体内へと消えた。消え失せた。


「……………………?」


 ふと我に返り、目を瞬かせる。部屋いっぱいに広がって、鮮烈に輝く巨大な金魚がいる。この部屋の主である、あの男はいない。たった今、いなくなった。何故ならば、この光る巨大な金魚が、あの男を飲み込んだから。……それはつまり、一体どういうことなんだっけ?


「助けた方が、良いのかな……? 人間を死なせるのは良くないし、一応は夫だし……?」


 考えを整理しようと、言葉を声に出してみたけれど、口にした瞬間に、胸の奥から強い気持ちが湧き上がってきた。……ああ、あの男はとっても醜悪。醜悪だし、すごいウザかった。消えてほしかった。あたしの前から、消滅してほしかった。


 あたしは首を振って立ち上がり、キッチンの隅の戸棚を漁った。こういう時は、何はともあれ、まずはお酒を飲むに限るよね。今の気分にいちばんしっくり来そうなお酒が見つかったので、それを取り出す。この部屋を埋め尽くしている朱金の光に似た色合いの、甘くて濃ゆい、杏露酒。こちらは単にいちばん取り出しやすかっただけな、適当なグラスを手に持って、冷凍庫から氷をざらざらと注いで、その上から杏露酒をとろりと流し入れて、グラスを軽く揺すぶって。溶けた氷が、杏露酒を程よく冷やして薄めたと思えるところで、ぐっと飲み干した。


 濃厚な甘みと酸味があたしの喉を、アルコールがあたしの脳を焼くのに委ね、グラスにおかわりを注いで、それもすぐに飲んだ。グラスを重ねていくにつれ、薄手の紗のカーテンがあたしの周囲を幾重にも包み込むみたいな感覚になって、今はもう姿形もないあの男は、前々から存在しなかったのではないかな?みたいな考えになってきた。


その考えは、すごく素敵だった。ぼんやりしたカーテンのこちらには、眩いコメットさんとあたしがいる。そして、ぼんやりしたカーテンのあちらには、カーテンを開け放ってみても、くだらない男もつまらない女も、もう誰もいない。それならば。私の生活を昔から彩っていたのは、他ならぬコメットさんだったんだ。そして、今存在しないつまらない何かは、そもそも最初から存在しなかったんだ。綺麗なコメットさんに、綺麗なあたし。この先も、ずっと一緒。


……でも、もしもこの先、あたしまでコメットさんに食べられちゃったとしても、それはそれで。

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コメットさん 砧 南雲(もぐたぬ) @raccoon_pizza

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