第3話

 その日から、あの男の暴力は頻繁になった。同じ会社のどっかの地方の支店の女が、ここへ来てあの男に不審感を抱き始めたらしくて。いわゆる性行為の交渉が、難航してるらしくて。……知ったこっちゃないし、それで八つ当たりされるのもうんざりだけれど。口で言ってわかる相手でも、力で刃向かって勝てる相手でもないから、できるだけ抵抗しないで好きにさせるのが、手間がかからないんだよね。


 幸い、ぶたれたり蹴られたりの痛みは、実家暮らしで慣れてる。大人の女が始終生傷を拵えている恥ずかしさだけが、あたしには耐え難かったわけで。それも近頃は、ちっちゃな金魚が夜毎に治してくれるから、あまり気にしなくて済むようになった。


 本当、すごいんだよ金魚。ちっちゃいし、幻覚なのにもかかわらず。理屈はわからないんだけれど。気分良い妄想をしているおかげで、あたしの中の治癒力が高まるとか、そんな感じなのかなあ。あの男に殴られたり蹴られたりした後に、恒例の夜の散歩又は彷徨又は徘徊に出ると、人影のない場所で決まって金魚に出くわす。あたしは金魚を、コメットさんと呼ぶことにした。そういう金魚の品種があるんだよ。スリムな身体に、長い尾を引いて、泳ぐ姿が流星のようなんだって。宙を泳ぐ金魚っぽい名前だよね。コメットさんは、ちっちゃいくせにきらきらと輝きながら、あたしの生傷を片っ端から丹念についばむ。傷はてきめんに消えて、あたしは身も心もすっきりして部屋に戻る。


 あの男はベランダで、同じ会社のどっかの地方の支店の女へ、必死に媚を売ってる。飽きもせずに、毎晩のように、ずるずるとだらだらと長たらしく。ばーか。でもあたしは前と違って、あの男の醜態を自分から突き放して眺められるようになった。お酒は相変わらず飲んでいるけれど、先の見えない絶望をやり過ごす内にいつしか死を迎えたいとかじゃなくて、あの男に殴られようか殴られなかろうが、今日もあたしはそれなりに頑張ってて充分えらいぞ! あの男とは違うぞ! みたいな前向きな気持ちで、一日を締めくくる為のお酒になった。なので、コンビニ売りの強くてすぐ酔えるやつ以外にも、美味しそうな果物のやつとか、綺麗な色のやつとか、名前がいい感じのやつとかも、買って戸棚にしまっておき、時々選んで飲むようにした。


 不思議なことに、仕事のほうも変わってきた。今までみたく、良くも悪くも目立たぬようにやり過ごすところから、ひょんと一歩抜け出した感じになった。ほら、顔の傷を気にして他の人とはできるだけ目を合わせないとか、手足の傷が他の人の目に触れないように常に長袖を着るとか、そういう無駄な努力から解放されたじゃん? 余裕ができたんだろうね。


 職場の上司からは、「あなたは経験の割に引っ込み思案でいたのを懸念していたけれど、最近は積極的な姿勢が伺えるから、このままなら次の機会で昇給試験に推薦できるよ」みたいなことを言われた。仕事が増えるのは大変だけれど、それでお給料も増えるなら、いつかその内、あの男と繋がって生きなくて済む日が来るかも知れない。そう思ったら、世界がワントーン明るくなった気がした。


 そしたらその夜、恒例の夜の徘徊の帰り、一人の若い男子とすれ違う時に、前みたく変にキョドらず堂々としてただけなのに、その男子から声をかけられた。「お暇だったら、少し話し相手になってもらえませんか?」って。実際、暇は暇なので、それなりに警戒しながらこの前の公園に行って、犬を散歩させている人や縄跳びをしている人に交じって、世間話とプライベートの中間みたいな会話をした。三十分も話さなかったけれど、その男子は何故か喜んでて、最後に携帯番号の交換を持ち掛けられた。あたしはあの男に携帯を解約されてたから、そこは丁寧に断った。その男子は、「またお会いできたら、こうやってお話に付き合ってくれると嬉しいです」と言い残して、握手して去っていった。われながら、なんかちょっと青春な感じだった。


 その男子とは、その後会うことはなかったけれど。この青春な体験は、世界を更にワントーン明るくしてくれた。あの男と切れた後、他の男子と改めて出会う機会が、全くないということはないのかもしれない。そう思えた。つい少し前まで、あたしは若くなくないにも関わらず、人生が完全に詰んでいた気がしたのに、意外とそうでもないかもな感じになってきた。


 それもこれも、コメットさんのおかげだね。幻覚で人生が上向きになるなんておもしろい。もしかすると、個人輸入で向精神薬を手に入れたり、違法薬物に手を出している人達は、そういう奇跡を信じて夢見ているのかもね。あたしは、自分の脳内麻薬か何かだけでここまで漕ぎ着けちゃったから、安全かどうかはさておき、法には触れていないし、リーズナブルだし、それに何より、とっても綺麗で可愛いところが気に入っている。


 一方で、あの男はどんどんドツボにはまっていったみたい。どっかの地方の支店の女に、あの日嘘をついて会いに行ったことが結局ばれて、途端に手のひらを返され、嘘つきのストーカー扱いされて。女から個人的に相談された、人事か何かの男は、あの男が妻帯者であることを漏らして。女はヒートアップして、あの男を社内の然るべき窓口へ訴え出て。それまで毎晩のように、電話で睦言を囁かれといて、随分変わり身早いよね?と思いはするけれど、正直どうでもいい。どうでもいいのに、嫌でも知ることになった。女に邪険にされ、会社にもしこたま怒られたあの男が、膨らんだ鬱憤をあたしにぶつけることにした為だった。

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