第2話

 しばらくの間、あたしはその夜のことを忘れてた。過ごす日々のほうは、特に何も変わりがなくて、あたしの気持ちのほうが、不思議と穏やかだったから。つい、時が過ぎるのに、ただ身を任せていた感じというか。


 仕事のほうは、良くも悪くも目立たない感じにやり過ごして、家のほうは、必要最低限の会話だけして。何か言ってきたことに、とりあえず合わせて動いて、こちらからは、何も求めなくて。


 このやり方で、上手いこと回ってたから。お酒の力で、あたしの寿命がそこそこで尽きるまで、時が知らない内に過ぎてくれるんじゃないかと。……ちょっと、期待しちゃったんだよね。まあ、全然駄目だったんだけれど。


 あたしが半月ばかり、泣いたり暴れたりしなかったから。あの男は、あたしをこれまで以上に見くびって、もっと低く扱うことに決めたらしい。


 ある日のこと、急な出張が決まったからと、あたしに着替えやら洗面道具やら準備させて。あの男は一泊二日の日程で、やたらと気合い入れて出掛けていったんだけれど。


 その日の午前中に、あたしの携帯へ、一本の電話がかかってきた。あの男の職場から、あの男の携帯が圏外通知だからという理由で、緊急連絡先として申告されていた、あたしの携帯へ。


 電話の相手の、庶務だか総務だかの人が話すことには。何でも、あの男の職場で、感染力の高い何かの病気の感染者が出たらしい。だから、ここ数日間の行動を早急に報告して、もしも、感染者と行動を共にしていたならば、保健所から指示が出るまでは、自宅で待機するように。……とか、そういう感じの話だった。


「夫は、出張じゃないんですか?」

「いえ。明日まで有給休暇の申請が出ていますが」


 そちらの間違えでは?と返す代わりに、折り返させますと伝えて、電話を切った。だって、どうでもよかったから。


 それから数時間経って、あの男からあたし宛に電話が来た。


「お前、会社に余計なこと話したんじゃないだろうな!?」

「何も知らないあたしが、何が余計かもわかるはずないじゃん!」


 どうでもよいはずのことで、いきなり怒鳴り付けられたから、つい言い返して、電話も即切りしてやった。その瞬間だけは、気持ちがすっきりしたけれど。


 その日の深夜に、ドタバタと部屋へ帰ってきたあの男から、あたしが代わりに荷物を詰めた、旅行カバンで頭を殴られて。金具で顔が切れて、血が出ても止まらず、あの男は続けてあたしを何度も蹴った。


「俺に手間かけさせやがって、このアル中女が! お前が二度としゃしゃり出ないように、お前の携帯は明日解約するからな! どうせ根暗で友達もいないんだから、なくたって困りやしないだろ!」


 実家に何かあった時に連絡取れなくなるじゃんと一瞬思って、どうでもいいかと思い直した。今の状況でも頼れない関係性だし、今更だし。


 あの男が、あたしを蹴る合間に喚くことには。同じ会社のどっかの地方の支店の女に、ここずっとアプローチしてて、出張にかこつけて、会える約束をやっとこ取り付けた……と思いきや。肝心の出張が、土壇場で流れちゃって、でもこの機会を逃すと、ここまでのせっかくの努力が巻戻っちゃうから。それで、会社に有給休暇をゴリ押しして、わざわざ会いに行ったというのに、感染者の誰かとあたしのせいで水の泡だと。その上、あたしが問い合わせの電話に「出張では?」と問い質したことで、会社からあの男が不審がられてるんだってさ。……うん、本当にどうでもいい。


 あたしをひと通り、蹴り疲れて満足したあの男が、いつものように、ベランダに出て。どうやら同じ会社のどっかの地方の支店の女だったらしい、いつもの相手に電話して。べちゃべちゃした気持ち悪い口調で、何やら必死に言い訳を始めた隙に。


 あたしは、財布と煙草とライターをポケットに突っ込んで、部屋を飛び出した。外付けの階段を駆け下りて、とにかくこの部屋から離れる為に走った。サンダルの甲で足の甲があっという間に擦り切れて痛いけれど、そんなのは後回しでいい。とにかく、遠くへ。つっても、当てはないんだけれど。


 気が付くと、家から少し離れた公園に来てた。遠くつっても、今のあたしにはこれが限界かー。あたしがいつも散歩する時間帯には、犬を散歩させる人や、縄飛びする人や、語り合うカップルなんかがチラホラいたりする。でも、こんな夜遅くには、さすがに誰もいない。ちょうど良かった。あたしは街灯から離れた暗がりのベンチに腰を下ろした。そして、足の甲と足の甲の間の、地面を無駄に眺めた。


「なんで、あたし、あんな男と籍を入れちゃったかなあ……?」


 なんでかって、あたし自身がよく覚えてる。大学に入って、一年経ったぐらいに。うちの親が、お見合い話を突然持ってきて。あたしはこれから自分の人生の可能性を探るとこなのに、何でいきなりゴールを持ってきて押し付けるの!?って、それはもう激しく反発して。でも、自分の子供と自分の違いがわからない感じの人達だから、話が通じなくて。


 当時よくつるんでいた、大学のサークル仲間に、大泣きしながら愚痴ったら。うちの親の過干渉に、これまでずっと憤ってくれていた、仲間の一人から、プロボーズされて。あたしが、それを渡りに船だと思って、飛び付いちゃったから。


 その後親に勘当されて、大学を辞めさせられるまでは、想定の範囲内だったけれど。まさかその後、あたしの何もできなさに、あの男にあっという間に愛想尽かされて、あっという間にないがしろにされるとは、さすがに予想できなかったよね。かと言って、今更家には帰れないというか、帰っても今の生活と変わりないし。時々相手のかんに障って、殴られたり、ものを捨てられたりすることがある住み家。束縛が少ないだけ、今のほうがぎりぎりマシとさえ言えるし。


 ベンチで黄昏れる、あたしの目の前に、ふっと、朱金の輝きが灯った。驚いて顔を上げて、目にして、そして思い出す、あの夜の幻覚。……ちっちゃな、金魚。


 金魚は、あたしの目の下に移動し、あたしの視界から消えた。その直後に、あの男の鞄の金具で切られた顔の痛みと、続けて足の甲の痛みが、すーっと消えていった。

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