コメットさん

砧 南雲(もぐたぬ)

第1話

 夜の町に雨が降り出して、アスファルトから焦げくさいみたいな匂いが立ちのぼり始めて。あたしは、くわえてる煙草の火が消えちゃわないと良いなと思いながら、ふらふら歩いていた。散歩というよりは、彷徨とか徘徊が適切なのかも。道には他の人影がないから、人目を気にせず道幅を全部使い切って、思う存分にふらふらした。


 ふつうの人達は、学校や会社が終わって居心地良い部屋に帰って、大切な人達とご飯を美味しく食べたり楽しく会話したり。一人きりでいても、好きなTVを観たり音楽を聴いたり。多分、そういう感じの時間帯。でもあたしは、全然そうじゃなかった。部屋にいたって少しも落ち着かなくて、買い置きしてたすぐ酔えるお酒を飲み尽くしてから、タオルケットを頭からかぶって、部屋の隅に転がってみたけれど、でも全然眠くならない。実際、寝るにも早い時間だったし、なので財布と煙草とライターをジーンズのポケットに突っ込んで、サンダルを突っかけて、眼鏡と鍵と傘はどうでも良いのでスルーして、部屋を出てきたんだった。


 出てきたところで、何にもないんだけれど。とりあえず、近くのコンビニへ行って、できるだけ気軽そうな雑誌を立ち読みして。その内に店員さんの圧が強まってきたなら、お酒と煙草を買って出て。吸っている煙草が消えちゃうまで雨が強まるか、逆に雨のほうが負けを認めるまでの間、徘徊して時間を潰すぐらいな感じかなあ。


 そんなことを考えながら、少し大袈裟にふらふら歩いていたら。駅の方から、離れていても随分と賑やかな、多分若いっぽい男子の集団が歩いてきた。あたしはふらつきを抑えて、携帯灰皿に吸いかけの煙草を突っ込んで、できるだけ問題なさそうな感じを装ってから、すれ違ってみる。この強まりつつある雨の中で傘をさしてないんだから、歩き方をどうしようが、不審者なんだろうけれど。頭おかしい女ってことでスルーしてもらえるなら、それはそれで。……うん、よし。声かけられなくて済んだ。


 はー、無駄に緊張しちゃった。改めて煙草を吸おっと。ジーンズのポケットをまさぐって煙草を取り、口にくわえたら先っぽが雨で濡れないように下を向いてカバーして、ライターの火をかざしながら深く息を吸う。火が点いたので、今度は煙を吸い込むために、また深く息を吸う。そして顔を上げる。……すると。


 そこに。


 あたしの目と同じ高さ、あたしの目の前に、発光する朱金の小さな塊が、ふわふわ揺れていた。


 意味がわからなくて目を凝らす。でも、見間違えなんかじゃない証拠に、消えず変わらずそこに漂う、とてもちっちゃい一匹の金魚。縁日の金魚すくいで見かけるみたいな、もしくは熱帯魚屋さんで餌として売られてるみたいな、次の日には死んでそうな繊細なやつだ。道端の水銀灯が、舞台のスポットライトみたく、金魚と周囲の降り注ぐ大粒の雨をギラギラと照らして。アルコールと裸眼とでぼやけまくった私の目には、あり得ないぐらいに、それはとても綺麗で儚い光景だった。


 でも実際、こんなことってあり得ない。金魚が空に浮くわけないもん。これは、幻覚とかそういう類の、非現実な何かだよね。幻覚を目にした時に、これって幻覚じゃんと思うのは、あたしが中途半端に頭おかしくなったってことなのかな。だからなんだって感じだけれど。


 ……ああ、でも、とっても綺麗。綺麗だし、すごい可愛い。消えないでほしい。あたしの前に、存在していてほしい。あたしは、自分でもよくわからない衝動に突き動かされて、金魚に手を伸ばした。すると金魚は、あたしの指先をすり抜けるように、宙をついっと泳いだ。そして、あたしの手の甲を――先日こしらえてまだ治らない擦り傷を――つつくような仕草をした。そしたら、擦り傷がみるみる薄くなって、スッと消えた。幻影の金魚じゃなくて、現実の傷のほうが消えた。金魚があたしに触れた感覚は、何も感じなかったのに。


 あたしはその場で首を捻る。途端に足元がふらついて、数歩よろけて、体勢を立て直す。セーフ。……うーん、どういうことだろう? これは金魚の幻影じゃなくて、ドクターフィッシュの幻影なのかな? でも、金魚だろうがドクターフィッシュだろうが、魚が空中を泳がないことには違いないはず。だとしたら、傷が消えたことのほうが、金魚と同じく幻覚なのかも?


 すると、今のあたしは、お酒に酔って夢を見ながら町を徘徊しているのか、もしくは町を徘徊しているところからして、既に夢なのかもよ? だとしたら、こんな綺麗で可愛い夢が見られて、あたしは幸せだ。ほんのひと時でも、素敵な気晴らしさせてもらえて、とても良かった。本当にたまには、良いこともあるよね。


 あたしは、もう部屋に戻ることにした。ちっちゃな金魚に軽く手を振って名残を惜しんでから、ふらふらやって来た道をふらふらと引き返した。結局コンビニには行かなかったけれど、どうでもいいかな。建屋に着いたら外付けの階段を慎重に登って、息を殺して開ける。出てから帰るまで、一時間経つか経たないかだけれど、部屋の中は、あたしが出てきた時のまんま。あたしが飲み干したお酒の缶が流しに転がっていて。でもあたしはもう、部屋を出た時の塞がった気持ちが、すっかり消し飛んでいたから。手と顔を洗って口を濯いで、タオルケットを頭からかぶって。


 ベランダの外からはニヤけ感全開の会話が、呆れたことに未だ終わらず、きれぎれに漏れ聞こえてきたけれど、あたしは今度こそは、おとなしく眠りにつくことができたのだった。

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