破られた無菌室

緑茶

破られた無菌室

 五十年前、K女学校で起きた惨劇について、記者の私は、当時の生徒に話を伺うことができた。

 今は老婆である『彼女』は、当時たまたま風邪で休んでいたことから、その悲惨な状況から免れることができたのだという。

 そんな彼女は、コーヒーカップを置いて、ぽつりと言った。

 ――もし、自分もその場に居たら、自分も死んでいただろう、と。

 それから、その時の実際を、私に語ってみせたのである。



 K女学校――都内沿線の閑静な住宅地を通り抜けた小高い丘に位置するその場所は、孤高の存在であり、いわば無菌室であった。

 そして、そこに通う女生徒たちは、みな一様に、大切に育てられた折れやすい花と言っても過言ではなかった。

 教師も、用務員も、全てが女性というその環境のなか、可憐な花々は、互いを慈しみ合いながら育ってきた。

 争いを避け、調和を選ぶのは自然なこと。彼女たちは、自分たちの関係性だけで満足していた。

 上級生は下級生を妹として可愛がり、下級生は上級生を尊敬し――そしてときに、恋をする。

 やがて、彼女たちは、「良き淑女」となり卒業し、「良き男」のもとに嫁いでいく。たった数年間。しかし、だからこそ彼女たちの時間は濃密に凝固するのだった。

 それは永劫、入れ替わりを繰り返しながら続いていくものと思われていた。


 だが、そこに、さざ波が立つある出来事が起きた。


 ひとりの下級生、ここではMとしておこう。

 器量も決して良いものではなく、勉強も苦手であった彼女は、しかしながら学園内で孤立することもなかった。というのも、人一倍の優しい心と、思いやりがあったためだ。

 それがために、同級生からも上級生からも可愛がられていた。

 とはいえ、心苦しいのはM当人である。

 自分が、先輩の、お姉様がたの足を引っ張っている、迷惑をかけている。そんな思いを、彼女は常に抱えていた。

 その悩みを相談できるほどの度量もなく、また、周囲にその機微に気付ける者もなく。

 MはMであるがゆえ、思い詰めるようになった。眠れぬ日々が続いた。

 その果て、彼女はある選択をした。

 誰の力も借りることなく、自分自身で、立派な淑女になれるように、努力をしよう。


 そうして彼女はひとり、「淑女」の理想像を、自ら作り出そうと思い至った。

 そのために必要なものが何であるかを考えた結果、彼女が選んだのは、「良き男」を空想ではなく現実のものとして考えられる力だった。

 カフェーの2階席から、道行く女性たちと手を取り合う紳士たち。彼らを見て、発想したものだった。

 彼女は、計略を実行に移し始めた。


 夕暮れ、同級生たちが、みんな帰っていった頃。

 Mは一人学内に残り、ひっそりと美術室をおとずれる。そして、ひとつの小道具を作り出す。

 それは、半身がスタンドに屹立している塑像に布をかぶせて、紳士に見立てるというものだった。

 極めて奇妙な思いつきではあったが、当時の彼女からすれば、それは真剣なことだった。

 彼女は、その真横に立ったり、また、正面に立ってみたりして、自分の将来の姿を想像した。彼女は思わず顔を赤らめるが、それでも続けた。いじらしい話であった。

 しかし、彼女は気付いていなかった。その様子を偶然に、遠くから目撃した生徒が一人、居たのである。

 

 ――この学園の秘密の場所で、紳士と秘密の逢引をしている生徒が居る。

 そんな噂が広がり始めるまで、時間はかからなかった。

 そうなると、皆が口々に、その紳士について、その逢瀬そのものについて話をするようになった。

 閉じられた空間で、互いを愛でるように育ってきた花々の間に、不穏な空気が満ち始めるのに、そうは時間を要さなかった。

 間もなく彼女たちは、自分もその紳士と相まみえたいという感情に取り憑かれ始めたのである


 それは上級生から始まり、やがて下級生の嫉妬を生み出し、同学年同士の生徒の感情の牽制に繋がり始めた。

 誰がその紳士と出会っていたのか、誰がその紳士にふさわしいのか。

 探偵小説の犯人当てのようだったそれは、やがて実際の生徒同士の腹のさぐりあいにつながった。

 穏やかな日々の裏側に、どす黒いものが渦巻いていた。

 少女たちは賢明である。一見すると、普段と何も変わらない。そんな取り繕いのすべを誰もが身につけていたので、教師たちは、まるで気づかなかった。


 そこから、あの凄惨な出来事が起きるまで、時間はかからなかった。

 ――ありもしない実像に対する嫉妬から、生徒同士の傷害事件が起きた。

 ――一人が自死をえらび、また一人が、同級生を殺すことを計画した。

 短期間で、嵐のように。


 結局そこに、そんな男はいなかったのに、そんな場所に男が一人で現れるはずもないのに。

 彼女たちは、本当の紳士を知らぬがゆえに、そんなことになったのである。

 その意味で、本当にその学園は、無菌室だったのかもしれぬ。


 しかし、それは結局、女というものの本性をひた隠しにし、抑圧する、世間にとって都合のいい装置にすぎなかったのではないか。



 私は彼女の話を聞き終わって、ペンを置く。

 それから、あなたも穏やかではなかったでしょう、と言った。

 すると、彼女は、首を横に振った。

 なんでも、自分は巻き込まれこそしなかったが、関わってはいた、というのである。

 そこで聞いてみると、彼女は驚くことを言った。


 その時美術室に居たのは自分である、と。そして今は、その惨劇を逃げられたゆえに、自分は紳士を手に入れたのだと。

 呆然とする私に老婆――Mは笑い。


「結局悲劇にしたいだけなのね。こうして生き残って、笑っている私のことは、女としてはつまらないですか?」


 私は答えられなかった。

 彼女は、私の書く手を止めさせることをしなかった。

 だがそのかわり、そこで彼女は去っていった。


 結局私はこの物語を発表するだろう。虚飾を廃した、当時の声として。

 しかしそれも、この部外者の男である私が発表する時点で、なんだか欺瞞に満ちてしまっているような気がするのである。

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