第459話 僕たちの失敗
お風呂から出た僕は、お腹が空かないと言って夕食は食べなかった。食べる気になんてなるわけもない。
僕はベッドに横になった。いい夢が見たい。そう思い抱きしめたマドレーヌから、微かにビスキュートの匂いがした。そのお陰か、僕は夢の中でビスキュートと再会することができた。
でも、夢の中のビスキュートは動かない。話しもしない。体温もない。僕は夢の中で、またビスキュートの冷たい体を自由にした。
翌朝、軽い頭痛とともに目が覚めた。起き上がり、しばらく外を眺めていたら、その頭痛もあっさり消えた。いつもの朝を迎えられることに心から感謝した。
「おはよう。アルバート」
「おはようございます。お母様」
「ふんふーん、ふふーん」
今朝のお母様は機嫌がいい。目玉焼きの黄身もちょうどいい半熟だ。お父様も満足な顔で朝食を食べ切った。メルデス家の平和な朝の風景そのものだ。
「じゃあ、いってくるよ」
「いってらっしゃい」
「いってらっしゃい、お父様」
7時45分、お父様が出勤。リチャード先生が来るまで少し時間がある。僕は予習をする為に部屋に戻り、パソコンにむかった。20分ほどして一息つく。
他の人形たちと一緒に並べたマドレーヌを見る。ひときわ可愛い。でも、服を脱がせたりなんてしないよ。昨日で僕はすごく大人になったんだ。ビスキュートの裸を見たり、キスをしたり、あそこを舐めたりできたことは、とても貴重な経験だった。
8時30分、リチャード先生が来た。僕は気合いを入れて授業に臨んだ。いつもより、頭の回転が早い。答えがすぐに浮かぶ。やっぱり僕は生まれ変わったんだ。
悪夢に等しいピンチを乗り越えた僕は、昨日だけで何年ぶんも成長できた。ビスキュートとの出会いをマイナスにはしない。僕はすべてを糧にする。そうやって生きていくんだ。
「じゃあ、続きは午後の授業で。お昼にしよう」
「はい!」
午前中の授業が終わった。このあと3人で昼食を食べたら僕は寝る。リチャード先生とお母様はまたキスでもすればいいさ。好きなら仕方がない。不倫なんて全然たいしたことじゃないよ。
人間の骨格は知らない間に歪む。それと同じように、昨日の出来事は、僕の中のモラルの形を少しだけ歪ませたんだと思う。
今日の昼食はアボカドとサーモンの冷製パスタ。お腹が空く感覚が戻ってきて嬉しかった。おいしく食べ終えた僕は部屋に戻った。頭をフル回転させた僕はとても眠たかった。マドレーヌを抱きしめると、数秒で夢の中に入ることができた。
「うう……ん」
時計を見ると、時刻は14時20分。授業はいつも14時から。アラームを止めた記憶がない。完全に寝過ごした。でも、お母様が起こしにきてもおかしくはないはずだ。ひょっとして先生とキス以上のことをしているんじゃ?
大人の僕は、できるだけ物音を立てながら授業部屋に向かった。それにしても妙に静かだ。誰もいないみたい。こんな感覚は今までにない。そう思いながらリビングを覗き込んだ。
「アルバート。ただいま」
そこにいたのはソファーに座るお父様だった。足元には血まみれのゴルフクラブ。頭部と顔面がぐちゃぐちゃのお母様とリチャード先生が重なって倒れていた。どうみても死んでいる。
お父様は大好きな葉巻に火をつけ、吸った煙を天井に向けてため息と一緒にはいた。
「お、お、お父様、どうしてっ?」
「どうだ? お父さん、やってやったぞ。男だろ?」
「ええっ?」
「お父さんはこのふたりの不倫にずっと前から気づいていた。でも、なにも言えなかった」
「そ、そ、そうだったんですか」
「おいおい、アルバート。そんなお父さんのことを情けない男だと思っていただろ? とぼけたことを言うな」
「えっ……?」
「お父さんはな、そんなアルバートにもちゃんと気づいていたんだ。いつかお父さんの男らしいところを見せてやろうって、ずっと思っていたんだ」
「だ、だけどっ!」
「あん? お前も俺をバカにするのか? 俺はこのぐらい余裕でできるんだ。俺をコケにする奴は誰であろうがぶっ殺す。そう、息子でもな……!」
そう言いながらゴルフクラブを手にするお父様の顔は、人の肉を欲する怪物たちと、さほど変わらなく見えた。
「ぼ、僕はお父様をバカになんてしてません! こ、殺さないでっ!!」
「あん? 本当かあっ!?」
確かにお父様はなんでお母様になにも言わないんだと思っていた。男のプライドはどこにいったんだとも思っていた。だからって、こんなの、こんなの、どう考えたって、おかしいじゃないかっ!
好きな女の子、母親、尊敬する先生、もはや父親もなくしたといってもいい。僕はその4人をいっぺんに失った極度のストレスで気を失った。
「あっ……ううっ」
ドサッ
目を覚ますとそこは病室。僕はボーッと天井を見続けた。悲しみや罪悪感から僕を守ってくれていた確固たる信念が、根元からポッキリと折れる音がした。もう僕にはなにもない。あるものといえば重度の人間への恐怖心のみだった。
「目を覚ましたわね。大丈夫? アルバート君」
カーテンを開けて僕を見る看護師の目が恐ろしすぎて、僕は発狂した。
「う、う、うわあーっ!! うわあーっ!! 来るなあっ!! 助けてえーっ!! 僕ちゃんを殺さないでえっ!! 食べないでえっ!!」
「ア、アルバート君!?」
このあと、鎮静剤を投与された僕はなんとか正気を保つことができた。薬が切れる度に、僕はその症状に襲われた。安定剤が欠かせない生活を余儀なくされた。
お父様は僕が気を失ったあと、首を吊って自殺をしたらしい。親戚から厄介者あつかいされた僕は、ほどなくして孤児院に行くことになった。
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