第458話 晩餐

 僕はビスキュートの頬にキスをした。死んだ人間を抱きしめることになんの抵抗もなかった。冷めていく体温が心地いい。やっぱり僕は変態だ。至福の時の中、軽いめまいと共に、僕は深い眠りに落ちていった。











 夢を見ることもなく僕は眠った。しいて言うなら、僕が見ていたのは暗闇。それが夢だと言われればそうだったのかも知れない。












 どれだけ眠ったんだろう。


 僕はゆっくりと目を開けた。目を開けてもそこは暗闇だった。部屋のライトは消されていた。カーテン越しでもすでに夜になっているのが分かる。横で寝ていたビスキュートはいない。僕は手探りで部屋のライトのスイッチを押した。


 床に転がるたまごっち。ベッドの上には僕が脱がせたビスキュートの衣類が、綺麗にたたまれて置かれていた。


 ドクンッ!


 嫌な予感。僕の心臓が大きく波打った。気持ちの悪い血流が、津波のように全身に押し寄せる。僕はよろめきながら部屋のドアノブに手をかけた。


 ガチャ


 もう鍵はかかっていない。


 僕は服を着て部屋から出た。階段を一段一段、転がり落ちないように気をつけながら降りていく。下からは夕食のいい香りが漂ってくる。僕は階段を降りきり、勇気を振りしぼってその香りのするキッチンへと足を踏み入れた。


「僕ちゃん、起きたかい」


「うふふ。浄化、ありがとね」


 僕は返事をしなかった。ただ、その場の景色を眺めるのみだった。テーブルの上には肉料理がズラリと並んでいた。


「僕ちゃんのおかげで、今日こうしてマリアと私たちの願いは叶えられた。とても感謝しているよ」


「私が腕によりをかけて作ったマリアの肉料理。堪能させてもらうわ」


「どうだね? 僕ちゃんもひとくち。マリアもきっと喜ぶはずだ」


「どうぞ。絶対においしいから食べてみて。私のおすすめはね、この……」


「お人形」


「ん? なんだい? 僕ちゃん」


「マリアちゃんのお人形。マドレーヌはどこですか?」


「マドレーヌか。ミネルヴァ、持ってきてあげなさい」


「分かったわ」


 ミネルヴァさんは僕の頭を軽く撫でてキッチンを出て行った。


「マリアに頼まれたのかい? マドレーヌのことを」


「はい……」


「ちなみに、今日ここであったことを、僕ちゃんは誰かに話すかな?」


 ラファエルさんは、また重油みたいな黒くて汚い目で僕を見た。


「話しません」


「本当に?」


「世間にビスキュートのことをかわいそうだと思われたくありません」


「そうかい」


 ミネルヴァさんがマドレーヌを持って戻ってきた。


「はいこれ、大事にしてあげてね」


「もちろんです」


 僕はマドレーヌをギュッと胸に抱きしめた。そんな僕の前でふたりは急に人格が変わったようにビスキュートの肉をむさぼりだした。


 ガツガツ


 ムシャムシャ


 カチャカチャ


 もぐもぐ


 ゴクン!


「ミネルヴァ! 最高だあっ! うまい! うますぎるっ!」


「ヤヴァいわあ! これ! どんな高級な肉よりも柔らかくておいしい!」


 ビスキュートが狂人の胃の中に吸い込まれていく。咀嚼され、十分にその味を堪能され、ふたりを麻薬的な快楽に酔わせている。


「僕ちゃん、もう帰りなさい! じゃないと私たちは僕ちゃんを殺しかねない! ふがふがっ!」


「そうね! いま私の頭の中には、僕ちゃんの睾丸を使ったレシピがいくつも浮かんでいるわっ! 食べられたくなければ今のうちにさっさと帰りなさい! くちゃくちゃ!」


 下品にビスキュートの肉を頬張るふたりが、小汚い豚にしか見えなかった。人間はここまで醜くなれるのか。僕は足元がおぼつかないまま、マドレーヌと一緒にキッチンを後にした。


 長い廊下を玄関に向けて歩く。その間も、ビスキュートの肉の味に狂喜乱舞するふたりの雄叫びと笑い声が僕の耳に届く。恐ろしく気分が悪い。


「おえっ……」


 僕はたまらず嘔吐した。寒気と震えが尋常じゃない。でも、早くこの場を去らなくては、いつあのふたりが僕を襲ってくるか分からない。


 マドレーヌを抱きしめて、なんとか心を落ち着かせた僕は、部屋の奥にしまわれていた自転車を押して部屋を出た。そして、玄関の鍵を開けて外に出ようとした時だった。


 ガタンッ!


「待てえっ!! やっぱり僕ちゃんも食べたいのだよお! 睾丸のマリネだってさあっ! ミネルヴァが作ってくれるってさあっ! だから帰っちゃダメだあ!!」


 ラファエルさんが真っ赤な顔でよだれを口いっぱいに溢れさせながら叫んだ。そして、僕に向かって廊下を走ってきた。


 ドンドンドンドンドンッ


「うわあ──────っ!!」


 ガチャ!


 僕は慌てて玄関から飛び出した。ガクガク震える足でなんとかペダルをこいで、何度か転びそうになりながら必死で家まで逃げ帰った。







「アルバート、おかえりー。遅かったわねえ。え? ちょっとー! どうしたのっ?」


 ガチャ、バタン!


「はあ、はあ、はあ……」


 僕はお母様を無視して、自分の部屋に閉じこもった。怖かった。あやうく怪物に捕まって食べられるところだった。


 ガチガチガチガチガチッ


 震えが止まらない!


 僕はいま気づいた。完全におしっこをもらしていた。パンツがぐっしょり濡れている。そのせいで余計に体が冷えて震える。


 僕はズボンとパンツを脱いだ。


 その瞬間、おしっこの匂いが僕の鼻をついた。それと同時に蘇るビスキュートのおしっこの匂いと味。僕は自分のおしっこを含んだパンツを口にくわえ、泣きながらおしっこを吸って飲んだ。


 口の中に広がるおしっこの味。


「ビスキュートぉ……」


 自然と儀式の時のことが思い出され、不安や恐怖が和らいでいく。震えがおさまった。落ち着くよ。ありがとう、ビスキュート。











 このあと、おもらししたことを正直にお母様に伝えた。普段の僕ではありえないことに、なにがあったのかしつこく聞かれたけど、もちろん理由は言わなかった。僕はそのままお風呂に入らされた。


 あったかい湯船につかり、僕の心と体は安心に包まれた。今日のことは忘れるんだ。ビスキュートのこと意外は忘れるんだ。それも最善の選択。人間は記憶を都合よく作り変える能力を持っている。それに期待する。


 明日はリチャード先生が来る。僕はもとの生活に戻るんだ。勉学に励み、上に立つ人間になる。僕は人間不信におちいりそうな瀕死の心を、おしっこの味とお風呂の温浴効果でなんとか立て直した。


 でも神様は、ビスキュートを助けなかった僕を許してはくれない。なんとなくそんな気がした。

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