第456話 Heartbeat

 キャップをはずしたNゼノン71。僕はゴクリと唾を飲み込み、なにも言わずにそれを差し出した。もう後戻りはできない。ビスキュートは、お菓子をもらうような笑顔でそれを手に取った。


「メルデス君、ありがとう」


「うん……」


「あのね、メルデス君にお願いがあるの」


「な、なに?」


「マドレーヌを持って帰ってほしい」


「マドレーヌを?」


「うん。マドレーヌは私の宝物なの。これからはメルデス君が一緒にいてあげてほしい」


「うん、分かった……」


「お願いね!」


 コクッ


 1ミリも迷うことなくビスキュートは一気に薬を飲んだ。僕は驚きで声が出なかった。ラファエルさんの言ったとおりなら、あと5分でビスキュートは死んでしまう。


 自分の命を守るためとはいえ、僕はこの異常な倫理観がはびこる家の中で大罪を犯してしまった。あまりに自分が哀れに思えて涙が出た。


 神様、無理やり犯罪者にされた僕をどうか見捨てないで下さい。


 神の存在を疑いかけていたにも関わらず、僕は瞬間的に祈っていた。人は苦しい時、どうしても神にすがってしまう生きものなんだ。


 ビスキュートはゆっくりとベッドに横になった。そして、目を閉じた。


「メルデス君」


「なあに?」


「お父さんとお母さんのこと好き?」


「す、好きだよ」


「いいなあ」


「ビスキュート……」


「私も優しいお父さんとお母さんがよかった……」


「そうだね……」


「怒らないお父さん。ご飯作ってくれるお母さん……」


「うん……」


「優しいお父さんはいっぱい遊んでくれる……?」


「うん……」


「肩ぐるまも、お馬さんも、してほしかった……」


「そっかぁ……」


「メルデス君のお母さんの料理は、ミネルヴァさんのよりおいしい……?」


「え?」


「私のお母さんはね、たまにしか作ってくれなかったけど、たまごやきね、たまごの殻が入ってるときもあったけど……」


「うん……」


「おいしかった……」


「お母さんの料理は特別さ。ミネルヴァさんにも、お店にだって負けない」


「そうだよね。だと思った……」


「うん、うん」


「メルデス君……」


「なに?」


「今日は……来てくれて……ありがとう」


「ビスキュート、僕は……」


「なんか眠く……なってきた」


「ビスキュート? ビスキュート!」


「やっと天国にいけるんだ。神様……もう2度と生まれませんように……」


 ビスキュートの顔色がどんどん白くなっていく。僕は今から大好きな女の子の死を目の当たりにする。僕はビスキュートの手を握りしめた。


 悲しくないわけがない。涙も出ている。それなのに、少しずつ興奮してきている自分にも気がついていた。あと数分で、大好きなビスキュートが僕だけのお人形さんになるからだ。僕の中の変態の血が騒ぎだしてうるさい。少し静かにしていてくれ!


「ビスキュート、ビスキュート!」


 体を揺すり、声をかける。反応がない。完全に眠ってしまった。僕はビスキュートのまだ温かい胸に手を置いた。


 トクン、トクン、トクン


 小さい心臓の鼓動が手のひらに伝わってくる。でもこれは死へのカウントダウンだ。これがビスキュートの望み。僕が生きるための選択。


 トクン、トクン、トクン


 もう僕の中に葛藤はない。



 トクン







 トクン











 トクン











 トクン









 














 トクン



















 トクンッ


 ビスキュートの心臓の鼓動は、125回目を過ぎると急に遅く、弱々しくなり、その後、30回打って止まった。

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