第454話 最善の選択

 僕は慌てて服の中に入れていた手を引っ込めた。体温が一気に下がる。頭の中にはピリピリと自己嫌悪という名の電気が走る。ごまかしようはない。


 僕は変態だ。こんな最悪な状況の中でも、指先に残るビスキュートの乳首の感触に興奮して全身が震えている。


「メルデス君のエッチ!」


 ビスキュートの表情は悲しみに覆われていた。僕は大好きな女の子に嫌われる恐怖で、背中に冷や汗がでた。


 ビスキュートの涙のたまる瞳に映る僕の顔は、さぞや醜い顔をしているんだろう。盗撮や痴漢で捕まるバカと同じ顔。僕の輝く人生に、初めてついた完全なる汚点。


「ご、ごめ……」


「なんでおっぱい触ったの?」


「……えっ?」


「メルデス君も私がなの?」


「えっ!?」


 父親による性的虐待と暴力。そのせいで、ビスキュートの精神と肉体は深く傷ついていたんだ。だから、触られることは嫌われていること。そう思っちゃうんだ。


「痛いことも、するの……?」


 ビスキュートの声は震えている。


 想像以上だった。


「どうせ死ぬのになんで生まれてくる必要があるの?」と聞かれたとき、ビスキュートの顔が死んでいるように見えた。あれは、心の中の大事に育てなくちゃいけないものを、逆に壊された人間の顔だったんだ。


 この部屋の時間が止まればいい。そう思った。でも、時間は過ぎていく。一方向に。僕の事情なんてお構いなしに。


 部屋の隅に置いたリュックに目がいった。中にはビスキュートへのプレゼントが入っている。ビスキュートの笑顔がみたくて、喜んでもらいたくて、はじめて好きな女の子のために買ったプレゼント。


 僕はリュックの中からプレゼントを取り出した。なんとかビスキュートの心を落ち着かせたい。嫌われたくない。その一心だった。


「僕はビスキュートが大好きだよ。痛いことなんてしない。誕生日プレゼントも持ってきたんだよ。ほら!」


「ほんと? プレゼント……?」


 ビスキュートが少し笑顔になった。プレゼントを手に取ると、優しくラッピングを剥がしていく。絶対に喜ぶに決まってる。


「これなあに?」


「新作のたまごっちだよ」


「たまごっち?」


「うん。宇宙で発見! たまごっち」


「宇宙? すごーい!」


 よかった。やっぱり女の子はたまごっちが好きだ。安心した。よし、やり方を教えてあげよう。まずはフィルムを外して電源オン。


 ピーロピロピロピローン!


「まずはたまごから始まるよ。赤ちゃんが生まれたら、宇宙食をあげたり、いろんな惑星に行って遊んだりして育てるんだよ。エイリアンが襲ってくることもあるみたいだから気をつけないとね。育て方によっていろんな……」


「いらない」


「えっ?」


「これ、いらない!」


 ビスキュートがたまごっちを思いきり僕に突き返した。


「なんで? かわいいのに」


「生まれちゃだめ。どうせ死ぬし」


「ビスキュート……」


 生まれることは死ぬこと。生命は死を生み出している。これはビスキュートの中で絶対なんだ。例えこんなちっぽけな液晶画面の中でさえも、生命を、死を、誕生させたくないんだね。


 コトンッ


 手からすべり落ちて床に転がった役立たずのたまごっちが、今の僕そのものに思えた。ビスキュートを喜ばせるどころか、また嫌な気持ちにさせてしまった。情けない、やるせない気持ちで、溺れ死んでしまいそうだった。


 そんな僕を嘲笑うように、ラファエルさんの狂気をおびた言葉が、頭の中で気持ち悪い歪みを伴って反響する。


『Nゼノン71。5分で天国に行ける薬だ。マリアがずっと欲しがっていたものでね。起きたら、僕ちゃんからのプレゼントだと言って渡してくれて構わない。とびっきりの笑顔が見られるはずだ』


「や、やめ……」 


『18時までに浄化が行われていなかった場合。僕ちゃんを食べるからね』


「ううっ!」


『かわいい男の子のお肉も食べてみたいんだ。ミネルヴァが特にね』


「いやだあっ!! はあ! はあ!」


「メルデス君!」


 僕の置かれている現状。それは正に悪夢だ。こんな情けない変態の僕の手を、ビスキュートは天使のように優しく握りしめてくれた。落ち着きを取り戻す。


「ごめんね、ビスキュート」


「メルデス君、大丈夫?」


 僕は分かってる。人生は選択だ。最善の選択を積み上げた者が勝者になれる。僕は積み上げてきたつもりだった。


「少し嫌なことを思い出して怖くなっちゃったんだ。でも、もう大丈夫」


「そうなんだ。よかった」


 あの日、ビスキュートに腕をつかまれ、特別支援学級の教室に入った僕の選択が間違いの始まりだった。その後も間違った選択を積み重ね続けた結果が、このどうしようもない悲劇の舞台だ。


「ビスキュート」


「なあに?」


「人間は、なんでつらいことから逃げると、怒られたりバカにされたりするんだろう……」


「私は怒らないよ、バカにもしないよ。逃げることは大事なことだもん」


 ラファエルさんは僕がビスキュートを助けることを決して許さない。そんな行動をとれば、本当に僕を殺して食べるだろう。


「ビスキュートは優しいね」


「えへへ」


 ラファエルさんは分かってる。この世界にヒーローはいない。自分の命をかけてまで悪に立ち向かうバカなんていないってことを。映画やアニメの中だけの話だと。


「ビスキュートにもうひとつ、誕生日プレゼントがあるんだ……」


「もうひとつ?」

 

 そして、ビスキュートは僕の助けなんて必要としていない。2人でここから逃げだすことも、警察に駆けこむことも望んでいない。


「きっと、喜んでくれると思う……」


「えー、なになに?」


 ビスキュートが望むのは2度と生まれなくなること。その願望を叶えるために、この家で生活してきたんだ。


「なんだと思う……?」


「分かんないよ。早くー!」


 僕は生きる。


 そのための選択をする。


 最善の選択を。

 

 僕の手の中で、死の薬誕生日プレゼントがその出番を待つように揺れていた。

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