第479話 悔恨

 ほぼ意識を失っていたからかも知れない。本来ならば、メルデスが彼女を具現化することはなかった。彼にとって彼女は神聖な存在。それをイタズラに具現化などすれば、自分の身に分かっていたからだ。


 小濱宗治の無限階段の異空間インフィニット・ステアケースを髪色の能力で手に入れた日。彼の頭に真っ先に思い浮かんだのが愛するビスキュートの具現化だ。彼女に会いたい。抱きしめたい。そんな単純な思いからだった。だが、彼は思い留まる。


 あの日。少年だった彼は自分の行動のすべてを最善の選択とした。ヒーローになり損ねた自分の存在を内なる牢獄に閉じ込め、神格化した彼女の思い出のみにすがり生きてきた。


 彼には自覚があった。心の奥底で静かに揺れる蝋燭ろうそくの火。消えそうで絶対に消えない、痛みを伴う小さな光。それは、あの日の自分の選択が最善ではなかったという悔恨かいこんの念。


 意識を取り戻したメルデスは、ビスキュートを前にして涙が止まらない。今すぐ彼女の具現化を解かなくてはいけない。そう思うよりも先に、彼は愛しのビスキュートを抱きしめていた。


『ビスキュート、ビスキュートッ!』


 冷たくて小さな体。懐かしい匂い。一気に蘇る詳細な記憶。助けたかったのに助けられなかった命。突きつけられた無力感。言いようの罪悪感。自分のズルさへの嫌悪感。


 ヒーローから悪役ヴィランに転落していく自分がおぞましかった。人として持っていてあたりまえのものが自分にはないと思った。逆にあったものといえば、性欲に踊らされる無様で醜い自分の姿。


 彼女の願いを叶えるため。自分の命を守るため。少年は自分にそう言い聞かせNゼノンのキャップを外した。


『一緒に生きていこう』


 喉まで出かかったその言葉を、少年は発することができなかった。極限状態の中に彼はいたのだ。20年以上の時が過ぎても、時折、後悔の波は彼を飲みこみ、窒息に似た苦しみを与えていた。


 いまメルデスが抱きしめているのは、ビスキュートの形を成した己の悔恨の念。彼はそれを知りつつも、懺悔の言葉が溢れて止まらなかった。


『ビスキュート、あの時の私は君の命を守れなかった。生きることの素晴らしさを伝えられなかった!』


「うん……」


『それを伝えて君の気持ちが変わってしまったら、自分が殺されて食べられる。それが怖くて、私は保身に走ってしまったんだ!』


「メルデス君、仕方ないよ」


『あのふたりに気づかれないように窓を開けて、SOSの紙飛行機を飛ばすとか、なにかしらの方法を考える時間は十分あった……なのに!』


「じゃあ、なんで考えなかったの?」


『えっ?』


「メルデス君は結局、私にエッチなことがしたかったんでしょ? だからろくになにも考えずにNゼノン71を私に飲ませたんでしょ?」


『ビスキュート、やめてくれ……!』


 メルデスはビスキュートを抱きしめるのをやめ、肩をつかみ、彼女の顔を覗き込んだ。


 ドロドロッ ドロリッ!


『えへへ……えげげげ!』


『ぬうわあっー!!』


 メルデスの目に映ったのは、顔の肉が腐って溶けた顔面ドクロのビスキュート。驚き立ち上がったメルデスを彼女はカサカサとよじ登り、耳元で汚くののしった。


『てめーはただの正義のヒーローをきどった変態くそ野郎だったな! 死んだ人間のオマン湖を舐めて興奮しやがって! マジできっしょー!!』


『う、うぎゃあーっ!!』


 

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