第448話 ルナティックガーデン

 人の本質とはなにか?


 その問いに僕はまじめに答えた。それに対するラファエルさんの回答はなんとも意味深だった。僕はその真意を確かめたいと思った。


「僕は世の中のすべてに本質はあると思うんです。ないというのは少し納得がいきません」


「僕ちゃんの言うことはもっともだが、その考え方が実は危険なのだよ」


 ラファエルさんが腕組みをしながら言った。


「危険?」


「さっき僕ちゃんは人の本質を理路整然とならべたてた。しかし、その逆の人間については言葉につまってしまったね?」


「はい。情けないです」


「情けなくなんてないのだよ。私は少しホッとしたくらいだ」


「もっと的確な答えがあると思うんですが……」


「そんなことは、考えなくていい」


 ラファエルさんはグラスを手に取り、中の赤いお酒を揺らした。


「なんでですか? 本質を考えることが危険ってどういう意味ですか?」


「本質とはにするべきではないと、私は言いたいのだよ」


「思考の対象にするべきではない?」


 ラファエルさんが謎のお酒をまた一口飲んだ。そのとなりでミネルヴァさんは微笑みながら話を聞いている。


「本質主義はときに排他的だ。過去にはジェノサイドを引き起こすきっかけにもなっている」


「ジェノサイド、大量虐殺ですね」


「自分と同じ本質を持たない者は人間ではない。人間ではないのだから人権はない。人権がないのだから家畜と同じく殺傷して構わない。一歩まちがえればこうなってしまうのだよ」


「そ、そんなふうにジェノサイドは起きてしまうんですね……」


「そのくせに話すこともできないペットの犬なんぞに共感するのが人間だ。私はそんな愚か者にはなりたくない」


「犬に共感……」


 普段からクラスメイトをバカといいながら、飼い犬のサリーの方がよほど利口だと思っていた。こんな僕はたしかに利己的で排他的だ。ジェノサイドを引き起こす因子になりうるのかもしれない。


「世界は多面体なのにも関わらず、私たちが見ている世界はほんの一面にすぎない。それも先人が作りあげた粗末なビジョンだ」


「世界は多面体、それは分かります」


「私たちが属しているルナティックガーデンが掲げるもの。それは『私的な関心の追求』なのだよ」


「ルナティックガーデンというのは宗教団体なんですか?」


「その通りだ。私たちはモライザ信者ではないと言っただろう?」


「信じる宗教は自由です。でも、子供にお酒を飲ませるというのは意味が分かりません」


「確かに、一般的にお酒は子供が飲むものではないからね」


「じゃあなんでっ?」


「その前に我々がなぜ、家族のようなマネをして共同生活を送っているのか。そこに疑問はないのかね?」


「なにかよほどの事情があるのかと。ですが、今お話を聞いて、その宗教の教えや規律が関係しているのではないかと思いました」


 ラファエルさんとミネルヴァさんが顔を見合わせてにっこり微笑んだ。ビスキュートにプレゼントは渡せないかも知れない。なぜか、その場がそんな空気に包まれた。


 隣のビスキュートはお酒を飲んだせいで完全に眠ってしまっていた。ラファエルさんが、その訳の分からない宗教団体について話しだした。


「ルナティックガーデンでは、利害が一致した者どうしで共同体ガーデンを形成するのだよ」


共同体ガーデン?」


「マリア、その子は生まれてきたことを呪って生きている」


「呪って?」


 確かに、ビスキュートは公園で話してくれた。「どうせ死ぬのなら生まれたくなかった」と。ラファエルさんは顎髭あごひげをなでながら話を続けた。


「どうにも我々の私的な関心の追求と公共の正義とは、あまり相性がよくないみたいでね。実に世知辛せちがらい」


「ど、どういう……?」


「我々は本能という名の自由の翼に、スタンガンでも突きつけられているかのように暮らしている。そうは思わないかね?」


「僕はそんな息苦しさを感じたことはありません。十分、自由に暮らしています。おふたりは何をそんなに不自由に感じているんですか?」


 僕のその返事は、意図せず悪魔を召喚させる呪文となってしまった。


 30秒ほどの間を置いて、ラファエルさんは口を開いた。


「そうだね。率直に言ってしまえば、私とミネルヴァは、マリアの肉や内蔵を食べたいのだよ」


「うふふ。言っちゃったわね」


 笑顔のふたりを前に、ただひとり、僕は冷や汗と共に硬直した。

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