第447話 人の本質

 僕の嫌いなアルコールのにおいが、その液体からは漂っていた。色からしてワインなのかと思ったけど、お父様がたまに口にしているものとはにおいが違う。明らかに。


「僕ちゃんもどうぞ」


 ミネルヴァさんが、まるで100%のフルーツジュースのようにそれを僕にふるまう。子供の僕に酒を飲めというのだ。もちろん、隣に座るビスキュートの前にもその液体は差し出された。


 僕は右に座るビスキュートに視線だけを向けた。さっきまでとはうって変わった曇った表情のビスキュートが視野に入った。


「ミネルヴァさん、これはお酒じゃないんですか?」


 僕は若干強めの口調で言った。


「そうよ。お飲みなさい」


 ミネルヴァさんの発声には未成年、ましてや小学生の子供にお酒を飲ませることへの躊躇ちゅうちょもなければ罪悪感もない。蛇口をひねれば水が出るように、あたりまえに言った。


「僕はまだ子供です。お酒は飲めません。マリアちゃんだって……」


 そう言いながら僕は目を疑った。すぐ横でビスキュートがそのお酒をひとくち、ふたくち飲んでいたからだ。


「まじゅい……」


「ビスキュート! お酒なんて飲まなくていいよ! 飲んじゃだめ!」


 僕がお酒のグラスをビスキュートから取りあげると、ラファエルさんが「ごほん」と咳ばらいをしてギロリと僕を見た。


「僕ちゃんはモライザ信徒かね?」


「え? ええ。そうですが」


「私たちはね、違うんだ」


「そうなんですか?」


 僕は生まれて初めてモライザ信者ではない人と接している。例えが悪いけど、ゾンビやゴーストを見ている気分になった。それほどまでに普段、僕のまわりはモライザ信者であふれている。


「僕ちゃんはお見受けしたところとても賢そうだ。少しお話をしようか」


「たいして賢くはありません。でも、大人の人と会話をするのは好きです」


 先週の帰り際、今日ここへ来ることは秘密にするように言われていた。しかも、その理由はビスキュートに関すること。僕はそれが聞けるんだと思った。ラファエルさんはグラスにつがれた謎の赤いお酒をひとくち飲んだ。


「僕ちゃんは、人の本質とはなんだと思うかね」


「人の……本質?」


「ああ。答えられるかい?」


 まったく予想もしていなかった質問をされた。でも僕は普段からそのへんは意識している。優れた人間は人格者でなければならない。上に立つ人間はリーダーとしての資質を問われるからだ。僕は間をあけることなく答えた。


「努力と忍耐を忘れず、常に挑戦し続ける精神。最善の選択とゆるぎない決断。挫折を乗りこえる強さ。日々の自己との対話からの自己肯定。他者からの評価の獲得。他者への感謝。惜しみない知識への投資。幸せを与えながら幸せに生きること。人として最低でもこのくらいは持つべき要素ではないでしょうか」


「ほう。立派なことを言うじゃないか。たいしたものだ」


「普段から思っていることです」


「では、その『逆の人間』は僕ちゃんにとってはなんなのかね?」


「え?」


「努力も挑戦もせず、優柔不断。挫折を乗りこえる強さもなく、自己否定ばかり。他者から評価されることもなく、感謝の心も持てない。知識もなく、幸せを感じることもできない。こんな人間は淘汰されるべきだろうか?」


「あ、え……と。人ではないとまでは言わないですけど、淘汰も少しちがう気が……」


 ラファエルさんは赤いお酒をもうひとくち飲み、ハッシュドポテトを頬張った。とても気持ちよさそうな顔で、ろくにかまずに飲みこんでからこう言った。


「人の本質なんてものは、特にありはしないのだよ」


 隣のビスキュートはあくびをして、少し眠たそうだった。

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