第441話 怪物

 時刻は14時50分。


 ビスキュート待っててね。いま助けにいくからね。僕はできるだけ息が乱れないように急いで歩いた。びったりフィットしたモーブスのスニーカーで地面を踏みしめる。そのたびに心が熱くなる。


 あそこの角を右に曲がればビスキュートの家だ。見えてきた。本当に妙に大きな家だ。よく見たら3階建てじゃないか。あの中で一体どんな酷いことが行われているんだ?


「ふう……ついに来たぞ」


 僕は事の真相をあばき、ビスキュートを救ってみせる。さっそくインターホンに指を近づける。


 ガチャリ


 それと同時に玄関のドアが開いた。まるで僕が来るのを待っていたようなタイミングだ。そして、出てきたのはビスキュートじゃなかった。


 男。


 それも大男だ。


 僕は今まで、こんな大きな人間に出会ったことはない。2メートル近い身長でかなり太っている。ヒゲも生やしてて、まるでハリポタのハグリッドじゃないか。


 こんな大男が酒を飲んで暴れたとしたらとんでもないことになるぞ。想像以上の怪物が目の前に現れて、僕は動揺した。


「僕ちゃんは、うちに何か用があるのかね? インターホンを鳴らそうとしていたみたいだが」


 なんて重低音な声だ。威圧感がすごい。うちには近寄るな、関わるな的なエネルギーに満ちている。それが空気にのってビンビン伝わってくる。


「あ、あの……」


「なんだね? いたずらかい?」


「そ、そうじゃなくて!」


「じゃあ、なんなんだい?」


「マ、マ、マリアちゃんが……」


「ん? マリアのお友達なのかい?」


「そ、そうですっ! 会いにきたんです! マリアちゃんに!」


「そうか。マリアのお友達か。ならおいで。今ちょうどクッキーを焼いているんだ。一緒に食べよう」


「え? クッキー?」


「甘いものは嫌いかな?」


「い、いえ、好きです……」


 この怪物はビスキュートの父親で間違いはなさそうだ。それにしても、見た目と違って優しいぞ。母親がクッキーを焼いているのか? 平和な家族の日曜日の午後っぽい。


 僕は招かれる形でビスキュートの家にお邪魔することになった。ひとまず、この怪物から酒の臭いはしていない。いまビスキュートは無事なはずだ。


 家の中に入ると、お菓子の甘い香りに全身が包まれた。心があったかくなる様な素敵な香り。緊張がとける。


「さあ、これを履きなさい」


「は、はい」


 出されたスリッパを履いて、ホコリひとつ落ちていない長い廊下を歩いていく。掃除も整理整頓も行き届いている。徐々に鼻を通る甘い香りが濃さを増してゆく。


「マリア、お友達が来たぞ」


 怪物のその言葉を聞いて、ビスキュートが驚いた様子でキッチンから飛び出してきた。


「メルデス君っ?」


「や、やあ……」


 僕は少し顔が引きつった。好きな女の子を助けに来たつもりが、一緒にクッキーを食べることになるという恥ずかしい展開。こんなはずじゃ……。


 ビスキュートのお母さんも、エプロンで手を拭きながら笑顔でやって来た。


「あら! マリアのお友達?」


「うん! メルデス君なの!」


「可愛い僕ちゃんね。歳はいくつ?」


「は、8歳です」


 なんて美人のお母さんなんだ。よくあんな怪物みたいな男と結婚したな。ビスキュートがかわいい理由がよく分かった。お母さん似なんだ。


「僕ちゃんはここに座りなさい」


 怪物に言われた席に僕は座った。


 テーブルの上に焼きたてのクッキーとココアが華やかに並べられた。いい匂い。こんないい匂いのするクッキーは初めてだ。ビスキュートの笑顔が僕の心をさらに弾ませる。


「メルデス君! このクッキーおいしでしょ?」


「うん! すごくおいしいよ!」


「あら! よかったわぁ!」


「ほら、よければ私のも食べなさい」


「あ、ありがとうございます」


 なんて穏やかなご両親なんだ。口にしたクッキーの歯触りの良さと、とろけるような甘さ。そして、それを食べるビスキュートの笑顔が、僕の短絡的な推理をかき消した。僕は振りかざした正義の剣を、いったんさやに収めるしかなかった。

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