第385話 アウフヘーベン
私はトンちゃんと共に1階に降り立った。忍び足でリビングの入り口まで行き、中の会話に耳を傾けた。
相変わらず、気持ちの悪いアロマキャンドルの甘い香りが漂っている。
「だからアイリッサはもう私の娘なんです。お渡しすることはできません。それにしてもエヴァさん、雰囲気変わりましたよね? 何かありました?」
「いいえ。特には何も」
前のお母さんは出された紅茶を口に運び、目を閉じた。
「さっきから気にはなっていたんですよ。この黒いキューブ、確か最近テレビで騒がれているカルトのものですよね?」
「あら、よくご存知で」
「アイリッサをカルトに入れるつもりですか? それが実の母親がすることですか?」
「ふっ、泥棒ネコが言うわね」
「泥棒ネコ……?」
前のお母さんはブラック・キューブを手に取った。それを見つめる目は確実に異常だった。
カシャリ
「私は確かにいい妻ではなかった。夫に黙って借金までしてギャンブルにつぎ込んだんだから」
「もう、やってはいないんですか?」
「馬はやめたけどパチンコはやめられない。適度に楽しんでるわ」
「完全に依存症じゃないですか。病院へ行くべきです」
「私がギャンブル依存だからといって、あなたが夫と不倫をしていい理由にはならないわよね?」
それを聞いて、新しいお母さんは呆れ顔になった。
「前にも話しましたよね? 当時の私と主人は決して肉体関係をもつようなことはなかったとっ!」
カシャ、カシャカシャ
「それを証明することは不可能。口ではなんとでも言えますからね」
「そ、それは……」
「どちらにしても私はあなたのせいで離婚することになり子供も失った。それが現実です。心は痛まないのですか?」
ガタン!
お母さんは怒ったように椅子から立ち上がった。
「もう帰って下さい。アイリッサはあなたのところには行きませんので」
カシャ
前のお母さんのキューブをかき混ぜる手が止まった。そしてそれをテーブルに置くと、今度はバッグから封筒を取り出した。
前のお母さんは無表情で封筒から何かを取り出し、テーブルに並べ始めた。
「な、なんですか、それ?」
「あなたのご主人の不倫現場の写真よ」
「えっ!?」
「ご主人、あなたというものがありながら、既に新しい女性と遊んでいるのよ」
「そ、そんな……え? なんで?」
お母さんは震える手で写真を1枚1枚確認していった。そして溜息をついて椅子に座り直した。
「確かに主人ですね、相手の女性は誰なんですか? エヴァさんは知っているんですよね?」
カシャ、カシャッ!
前のお母さんがまたブラック・キューブをかき混ぜ始めた。
「私はあなたが嫌いなの。もちろん、あなたも私のことが嫌いよね?」
「そういう問題じゃなくてっ! 質問に答えて下さいっ!」
カシャリッ!
「私はあなたが嫌い。でもこうしてご主人の不倫現場の写真を提供してあげたわ。さて、なぜでしょうか?」
「こんな写真見たくなかったです。知りたくなかったですよ。私を苦しめて楽しいですか?」
「苦しめるだなんて」
「私たちは幸せなんですっ! それを壊しに来たんでしょ? 自分だけ1人になって不幸だから。違います?」
「私が不幸?」
「こんな写真まで持って来て、勝ったつもりですか? やっぱりエヴァさん、あなた変ですよ!」
前のお母さんは並べた写真を1枚手に取ると、アロマキャンドルの火を付けて燃やし始めた。
メラメラ メラメラ
「苦しめるとか、勝ったつもりとか。見当違いも
「そ、それ以外に何があるって言うんですか?」
ジュウッ!
燃えかけの写真の火は、紅茶の残ったティーカップの中で消えた。
「よく聞きなさい。私がここへ来たのは、アウフヘーベンをする為よ」
「アウフ……ヘーベン?」
ピラッ
ヤヴァいお母さんがまた不倫現場の写真を1枚手に取った。
「この男の元妻の私、そして夫の不倫相手だったあなた。共に相入れない感情があるのも事実」
「何が言いたいんですか?」
「でも、この男の愚行に傷つき、翻弄されている私たちはもはや同士。そうは思わないかしら?」
「ど、同士って……」
グシャッ!
写真を握り潰して、ヤヴァいお母さんは再びキューブを手にした。
カシャ、カシャリ!
「この男はろくなものじゃない。そう思うでしょ?」
「そ、それは……」
「あなたは私と違って良き妻であり、良き母だった。でしょ? 違う?」
「わ、私は……良き……」
「あなたの今の気持ちが元妻の私にはとてもよく理解できるの。だからレイナさんを放ってはおけないわ」
「な、なんで、ですか?」
「私は夫の度重なる浮気のせいでギャンブルに依存してしまった。あなたもこの先どうなるか分からない。それ程までに愛する者から受ける裏切り行為とは心を抉るものなのよ」
「う、裏切りは、心を抉る……」
「本来なら私たちはこんな苦痛や屈辱を味わう必要なんてない。そうよね?」
「そ、そう思います……」
お母さんはテーブルに肘をつき、頭を抱えてしまった。もう! お父さん何やってんの? 最低!
カシャリッ!
ヤヴァいお母さんのキューブを混ぜる手が止まった。そして、キャンドルの炎を見ながら髪をかき上げた。
「私たちのこの傷つけられた精神は
「は、はい……」
お母さん、どうしちゃったの? 早くその人を追い返してよ。私たちの幸せを守ってよ。ねぇ、お母さん!
その時、私の心を察したかように電子音が鳴った。鳴ってしまった。
ピポッ!
『昇華とはなんでしょうか? 新たなステージとはなんでしょうか? そこんとこ詳しく教えて欲しいものだな。ぷひー』
「ぁぁぁっ……!」
(ト、トンちゃん喋っちゃだめっー!)
トンちゃんの声に気づき、ヤヴァいお母さんが部屋の入り口の影にいた私のところにやって来た。
「アイリッサ、盗み聞きは良くないわね。さっ、こっちに来なさい」
「う、うん……」
トンちゃんのあほたれー。
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