第298話 知らなくてもいいこと

 『ハンス・エルリッヒ』


 エルザさんの元彼。僕の知らないエルザさんを知る人物。その男は突然僕の前に現れ、悪魔の力の存在と、僕の寿命を告げた。


 で、エルザさんが僕のことを話していたって?


 ドキドキ


 僕は聞きたいような、聞きたくないような思いを抱きつつ、エルリッヒさんから受け取った紙を握りしめた。


「エルザさんは僕のことをなんて言っていたんですか?」


 聞いてしまった。握りしめる紙にじわりと汗が染み込む。


「そうですねぇ、ホラーバッハ君は周りに気を使い過ぎてつらそうだとか、一歩間違えたらなにをするか分からないを持っているだとか、エルザはあなたのことをだいぶ気にかけていましたよ」


「そ、そんなことを?」


「その頃には既に、エルザの気持ちは僕ではなく、あなたに向いていたのでしょう」


「エルザさんが僕のことを? そんなわけ、そんな……!」


 嬉しいはずなのに怖い。そんな感覚が僕の胸をえぐり始める。


「エルザがひとりで1日の疲れを癒す時間。それはレッドブルーを仕事終わりにここで飲むこと。その時間だけは誰とも共有することはなかった」


「誰とも?」


「そうです。彼女も当時のあなたと同じく疲れ果てていた。仕事にではありません。人間関係にです」


「あ、ううっ」


 僕の耳は既に、話の続きを聞くことに抵抗を感じ始めていた。


「エルザは優しく真面目に頑張るあなたに惹かれていた。その他の人間のことはだと言っていました」


「エルザさんは僕のことなんてなんとも。そ、それに彼女は人のことをクズなんて言わない。そんな人じゃ……」


 『知らなくてもいいこと』


 それは確実にある。世の中の大半がそうなのかも知れない。いま僕が興味本位で聞いてしまったことも、紛れもなくそれに属する事柄だ。


 全身に冷や汗が吹き出す。


 僕とエルザさんが両想い?


 そんなことを聞いたら悲しみが倍増してしまう。12年分が一気に押し寄せてくる。また死ぬよりもつらい時間に耐えなくちゃいけない!


「はあっ! はあっ!」


 カチャ


 僕は苦痛から逃れるように鞄からノートを取り出した。その真っ黒なノートには、事故死した人たちの名前が書きつらねてある。


 もちろん、ひとり目の名前はエルザ・ジルベルスタイン。


 エルザさんの葬儀の日の夜から、僕はその作業に取り憑かれた。あなたを不幸だなんて誰にも思わせない。その他の事故で亡くなった人たちもだ。


 彼ら、彼女らは間違いなく誰かに力を与える存在だった。それは死して尚、変わらない。


 このノートには、その力が凝縮されている。一頻ひとしきりノートに目を通すと、僕の呼吸と心はだいぶ落ち着いた。


「エルリッヒさん、が本当に職場の人たちのことを呼ばわりしていたんですか?」


 それでも、レッドブルーの空き缶を持つ右手は小刻みに震えていた。


「ホラーバッハさん、エルザは決して聖人君子ではないんです。人並みに傷つき、人並みに恨み、人並みにけなす。それが人間なのだから仕方がないんですよ」


「それが……人間」


「あなたは優しいお方だ。殺したい人間と言っても、それは相当のなのでしょう。違いますかね?」


 あのクソ女どものツラが目に浮かんだ。エルザさんの死を侮辱したクズ。僕は一端の社会人の前にひとりの人間だということを封印して生きてきてしまったのかも知れない。


「エルリッヒさん。僕は死ぬことはなにも怖くないんです。それよりも死に値する人間を殺さないことの方がよっぽど怖い。これが僕のです」


 最強のクズ人間である僕の封印が、いま解かれようとしていた。

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