第297話 殺しても構わないクズ

 この男のめがねの奥にある瞳は、ある種の狂気に満たされている。姿勢も良く、しなやかな指先。爪も綺麗に磨かれている。靴もアレッサンドロの最上級品だ。スタイリッシュなのにも程がある。


 そして、なんといっても声だ。とてつもない説得力を帯びている。『カリスマ遺伝子』のようなものを、この男が持っていることは誰もが感じるはずだ。


 ハンス・エルリッヒ。思い描いていたトムに近い存在。そんな彼の話を聞くことに対し、僕はなんの抵抗もなくなっていた。


「ホラーバッハさん、あなたはかなり自分を抑え込んで生きておられる。それは常人の数倍と言っても過言ではない」


「分かりますか?」


「もちろんですよ」

 

 エルリッヒさんはブラックコーヒーを口に運んだ。コーヒーはブラックしか飲まないらしい。


「僕は幼い頃から集団生活が苦手でした。気に入らない人間がいれば食ってかかり、トラブルは絶えなかったんです。ケンカもよくしました」


「そうなのですね」


「僕は殺意を必死に抑えながら人を殴っていました。本来なら何人殺していたか分かりません」


「よく耐えましたね。ですが、この世の中、殺しても構わないようなクズが多いとは思いませんか?」


 ガコン


 エルリッヒさんはブラックコーヒーの空缶をゴミ箱に捨てた。


『殺しても構わないようなクズ』


 いるさ。僕は未だにあいつらには殺意を抱いている。エルザさんの死を笑い話にしたども。


 まだここで働いている奴、転職した奴、結婚して専業主婦になった奴。全員ぶっ殺したくて仕方がない。


「その顔はいるようですね。いま現在、殺したい人間が」


「ぼ、僕は常識のある一端の社会人です。人を殺すなんて非現実的だ!」


 怒りと恐怖、相反する感情が同時に湧き上がり僕を狼狽えさせる。そんな震える僕に、矢のように放たれた悪魔の囁き。


「あなたはには死んでしまう。力を得るのです。本来の自分を呼び起こし、自分らしく生き、永遠に君臨するのです。我々と共に」


「な、なにを……!」


 本来の自分。


 自分らしい生き方。


 清々しいまでに魅力的なワードが僕の心に浸透していく。それにしても驚いた。僕の寿命はあと3日なのか。


 悪魔の力。


 永遠の命。


 なんて狂った発想なんだ。本来ならバカにして一蹴するところだ。


「はぁ、はぁ!」


 のはずが、僕の心は不思議なまでに揺らぎ始める。カリスマの発声はすべてを真実に導く力を持っている。胸が張り裂けそうに苦しい。


 そんな僕の頭の中にエルザさんの笑顔が浮かぶ。こんなヤヴァい自分に寄り添い『一端の社会人になれ』と言ってくれたエルザさんの優しい笑顔が。


「僕は一端の社会人として、まっとうに生きる! そして死ぬ……」


 まるで、僕の決意は被せるように彼は言った。 











「エルザ・ジルベルスタイン……」








「なぜ、貴方がその名前をっ!?」


 報道もされた。知っていても別におかしくはない。だが僕のその問いに対し、エルリッヒさんは予想もしなかった返答をした。

























「エルザは僕の彼女だったんですよ」










「んなっ!! そ、それは本当なんですかっ!?」



 おいおいおいっ!!



「ええ。僕と別れて1ヶ月後の事故でした。ニュースを見るまで亡くなったのがエルザだとは思っていませんでしたが……」


 エルリッヒさんがエルザさんの元彼? って事は、この人が僕の大好きなエルザさんとキスをしていた人。


 この人が僕の大好きなエルザさんの体中を舐め回していた人。


 この人が僕の大好きなエルザさんのヌルヌルのあそこに勃起したあれを入れてた人って事かよッ!!














「エルリッヒさん。内臓を食べたのは僕だけです。だからエルザさんはもうなんです」


 悔しくて変なマウントを取ってしまった。ホラーバッハ、お前はなんて愚かな人間なんだ。


「あっ! そうそう、エルザはあなたの事もよく話していましたよ」


「え?」


 エルザさんが僕の事をっ!?

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