第296話 理想像

 突然現れたエルリッヒは、あの日、あの時、あの場所にいたのだという。それを聞いた僕はとてもがした。


「ホラーバッハさん。あなたはあの時、事故で亡くなった女性の内臓の一部を確実に食べていましたよね?」


 ドキッ!


 僕は心臓が止まりかけた。嫌な予感がしたからだ。あの時、僕はあまりにむごときの中にいた。故に、瞬間的に周りが見えていなかった。


 僕は確実にエルザさんの内臓を食べた。それは覚えているが、それ以外がおぼろげだ。


『誰かに見られていなかったか?』


 トラックの影に隠れながら、ほんの数秒で儀式は終えた。僕とエルザさんはひとつになる必要があった。


 そこまで人通りのある道でもなければ時間帯でもなかった。あの状況で正気を保てというのが無理な話だが、油断した。いま改めて思う。トム、僕はあなたを尊敬する。


「エルリッヒさん、12年前の話、なぜそれを今? 僕から金でもせしめようと思われたのですか?」


 暴れたい衝動を抑えこみ、僕は冷静な目で彼を見つつ口撃した。


「とんでもない。すみませんね。誤解させてしまいましたか」


 誤解もへったくれもない。内臓を食べた自分に他になんの用があるというんだ。どうせ証拠なんてありはしない。僕は早くエルザさんとレッドブルーが飲みたい。


「エルリッヒさん。では僕の誤解を解いてくれますか? なんの用で今日はお越しに?」 


 エルリッヒは内ポケットから小さな紙を取り出した。拳銃でも出すんじゃないかと一瞬ヒヤリとした。


「これを渡したくて来たのです」


「その紙は一体、なんなんですか?」


 エルリッヒは金縁のめがねを外し、ピンクのハンカチでレンズを拭きながらおもむろに言った。


「この紙にはですね、悪魔の力を得る方法が記されているのです」


 悪魔の力? それを僕に与えようってのか? なんの為に? 疑問が多すぎて理解が追いつかない。


「ホラーバッハさん、あなたは運がいい。非常に運がいいんですよ」


「運がいい?」


 エルリッヒがゆっくりとめがねをかけ直した。


「12年前、僕はあなたが内臓を食べる姿を見た。それはとても崇高な行為に見えた。おぞましいとは思わなかった」


「う、嘘だ。そんなわけ……」


「嘘なんかではありません。でなければ、こうしてあなたに会いに来るなんてことはしません」


 エルリッヒは立ち上がり、自販機でブラックコーヒーを買った。


「ホラーバッハさん、あの日、僕はあなたに興味を持った。そして、あなたが僕のと同じ会社に勤めていることを知った」


「そ、そうだったんですか」  


 パコッ


 ゴクリ……


 エルリッヒはブラックコーヒーをひと口飲んでから、僕の目の前に先程の小さな紙を差し出した。


「あなたはもうすぐ死んでしまう。時間がないのです。悪魔の力を得れば、あなたの命は永遠になる。受け取って下さい。いや、受け取って欲しい」


「ぼ、僕が死ぬ? そんなことがどうして分かるんですか?」


「僕は既に悪魔の力を持っています。なのであなたの寿命が見えるのです」


「僕の寿命が?」


「それだけではありません。あなたはもっとちゃんと、生きなくてはいけない」


 僕は残りのレッドブルーを一気の飲み干し、紙を受け取った。


「エルリッヒさん。もう少し詳しく、話を聞かせてくれませんか?」


 僕はこの人に、トムの理想像を見た。

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