第237話 本当の自分

「ピンクローザ。お疲れ様」


「え……っ?」


 エルリッヒはこれまでに見せない笑顔で私をねぎらった。その優しい声は、私の激務で疲れきった体の隅々にまで酸素が送り込まれるような、清々しい気持ちにさせてくれた。


「世の中の大半の人間が、余命でも突きつけられなければに向き合うことはない。空気を読んで、周りに合わせ続ける窮屈でつまらない人生を歩む。僕は最初に言った。君は運がいいと。この意味を分かってもらえたかな?」


「とてもよく分かったわ。でもいい? ただ不安から逃れる為に同調し、たむろってる人たちと私を一緒にしないで。私のはハイスペックでいる為の選択。それだけよ」


「分かっている。君を侮辱するつもりは毛頭ない。リスペクトしているよ」


「ならよかったわ」


「それじゃあ」


 エルリッヒはそう言うと、接見室を後にしようとした。


「エルリッヒさん! 弁護は……」


「そんなものが僕に必要ないことは分かっただろう? 今夜にでもここを出るよ」


 エルリッヒはこちらを向かずに言った。


「悪魔の力。持ってらっしゃるんですものね?」


「そういうことだ。あーよかった。僕は本当に運がいい。それじゃ」



 ガチャ……パタン!



 エルリッヒとの接見が終わった。とはいえ、弁護の話は1ミリもすることはなかった。こんな経験は初めてだった。


 警察署を出ると、時刻は午後の4時を回っていた。私は彼から渡された小さな丸められた紙をみつめながら考えていた。


 『私は今年中に死ぬ』


 エルリッヒの言った私の寿命。それが本当ならば、私はこんなに追い立てられながら仕事に明け暮れていたくはない。事務所に戻れば腐るほど仕事はある。裁判も民事から刑事まで立て込んでいる。


 中には依頼者からのくだらないレベルの相談事もある。それにも真摯に向き合い、提案しなくてはいけない。


 書類も山のようにある。


 私は早く帰りたい。普通にのんびり暮らしたい。好きな紅茶を飲みながらゆっくりテレビを見たい。ゲームもしたい。小説も書きたい。恋だってしたい。プライベートな時間が少な過ぎる。


 クタクタで帰宅は夜の9時を過ぎる。クライアントとの打ち合わせが長引けば10時を回ることもある。


 私は美しきエリート弁護士。そう言い聞かせて背筋を伸ばし、胸を張り、ヒールの音を響かせながら凛として働いてきた。



『私はまだ死にたくなんてない』



 残りの仕事があるにもかかわらず、私は事務所には戻らなかった。エルリッヒに渡された紙に書かれた場所を目指した。


 私は乗ってきた車にも乗らず、バスにもタクシーにも乗らなかった。歩いてその場所へ向かった。コツコツと鳴るヒールの音。揺れる美しい黒髪。タイトなスーツに包まれたスタイル抜群の身体。


 男どものエロい視線がズバズバ私に突き刺さる。私の顔、胸、尻、足。全身くまなく見られているのが分かる。


 なら、その視線をキモがったりするんだろうけれど、私ぐらいのレベルになると快感にしか感じなくなる。


 見られるのは当然。美しく生まれた女の宿命であり、義務ですらあると私は思っている。全然見てくれて構わない。どうぞ見てください。


 男の本能が、私に精子を注入したくてウズウズしてしまうのよね? 仕方がないのよ。本能なのだから。好きなだけ頭の中で私を犯せばいい。


 私は選ばられる人間。求められる人間。人間としてトップクラスの存在。全人類の中で数%しかいない貴重な人間。見るだけなら構わない。でも、指一本触れることは許されない。


 私に触れることのできる人間も、言うまでもなく全人類の中で数%しかいない選ばれた人間のみ。


 そんなことを考えながら歩いていると、すでに陽は沈み、夜になっていた。そして、私は目的地に到着した。



「くっそボロい教会ね……」


 私は薄明かりの灯った朽ちた教会の扉をゆっくりと開けた。



 ギイイイイィィ……



「ご、ごめんくださ〜い……」



 私は恐る恐る教会の中へ入っていった。

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