第235話 非本来的な生き方
108件の万引きの罪で拘留中のエルリッヒという男の奇妙な話は、私の心の中にじわじわと雨漏りの様に染み込んでくるのだった。
「僕とこうして話していることは、君にとってとても運のいいことなんだよ。それをまず分かって欲しい」
「はい。とてもよく分かりました。お話が好きなんですね。心理的ケアも弁護士としての仕事のひとつですから、どうぞ好きなだけお話しして下さい。具体的な弁護の話はその後にしましょうか」
眠い。だるい。疲れる。
こういうカッコつける男は大嫌い。素直に自分の犯した万引きというダサい犯罪の罪を認めろ。
仕事のストレスを万引きのスリルで解消していたんでしょ? 示談にしてやるんだから感謝しなさいよ。このクレプトマニアが!
「君、とても疲れた顔をしている」
「そう見えますか? その原因の何割かはあなたですよ。エルリッヒさん」
疲労のせいでつい被疑者に横柄な口を聞いてしまった。完璧な美しきエリート弁護士である私としたことが情けない。私が謝ろうと口を開きかけた瞬間、彼はまた話し出した。
「君は、自分らしく生きているか?」
「自分らしく?」
「本来の自分そのもので生きているのか? と、僕は聞いている」
私は即答出来なかった。本来の自分。分かっていた。私は
そんな自分で一流の社会人としてやっていけるわけはない。バカでも分かる。私は清く、正しく、美しい。ピンクローザという人間をセルフプロデュースして生きてきた。
ハイスペックでありながら謙虚で奥ゆかしい。それが社会が求めるパーフェクトな人材なんだと私は分かっている。多かれ少なかれ、人間はそうやって自分に嘘をついて生きていくもの。
それなのに、この男はなにを言っているの? だから私は言ってやった。
「エルリッヒさん。人間なんて他人にも自分にも嘘をついて生きる生き物ですよ。そうやって社会は形成されているんです。私はそう思いますけど」
ふんっ! ありのままの自分なんか知られたくもないのよ。美と知性を兼ね備えた『人格者・ピンクローザ』を演じること。それも一流の社会人として生きていく為のスキルなのよ。
エルリッヒは私に更に問いかける。
「君は、その嘘まみれの社会から弾かれないように周囲と同調し、非本来的な生き方をする。し続ける。そういうことだね?」
「そ、そうですよ。それが人間であり社会なんですよ。仕方がないことなんです」
「仕方ない、か。そうだ。ちなみに君は死を意識したことはあるか?」
「死っ!? そんな、考えたこともないですよ!」
「だろうね。闘病中の人間でもない限り、そんなことをいちいち考えながら生きている人間なんていない。しかしだ。死はいつでも足元にある」
「足元……っ!?」
私は慌てて足元を見た。
「あはははっ。例えだよ。君、可愛いとこあるね」
「な、なんなのよっ!」
私はエルリッヒの話を聞くのが嫌ではなくなってきていた。
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