第181話 切ないカレーの香り

 あたりは暗くなり始めていた。夏特有の湿気混じりの重たい空気が、ただでさえ足取りの重い2人に纏わりついて離れない。


 『美咲の死』


 しかも、遺体すら残ってはいない。それを父、正男に伝える。考えただけで足がすくむ。


 見えてきた。あの角を曲がればすぐそこが風原家だ。昼に刀雷寺に向かう時には5人が2人になって帰ってくるなんて想像もしていなかった。


「あっ、カレーの匂い……」


「アンティー。カレー作って待ってたんだ……」


 風原家から漂ってくるカレーの匂い。それは、正男が美咲に頼まれたカツカレーの匂い。美咲の大好物のカツカレーの匂いだった。


 藤花も真珠もカレーの匂いを嗅いで切なくなったことなど今までの人生で一度もありはしない。ついに風原家に到着。藤花は狼狽える。


「に、西岡さん、これは、どうすれば……」


「分かったわ。私が伝える」


 真珠はそう言って、風原家の玄関を開けた。


 ガッ! ガラッ!


 ガッ! ガラッ!



 その開けにくい玄関を開ける音を聞いて、正男が玄関に飛んで来た。


「おかえっ……」


 笑顔だった正男の顔は、一気に表情を失い、引き攣った。


「ただいま。アンティー。こういうことよ。意味、分かるわね?」


 真珠は敢えて語気を強めた。


「い、いませんね。陣平さん、天使さん、そして、美咲も……」



 台所から、さらに濃いカレーの香りが漂ってくる。正男が美咲の為に作ったカレーの匂いが。


「アンティー、はっきり言うわ。陣ちゃんと美咲は……死んだわ。そして、イバラは体を腐神に乗っ取られてしまった。腐神になってしまった……!」


「そっ……!?」



 『絶句』



 風原正男はあまりの衝撃に言葉も出ない。覚悟はしていたはずだった。命の保障などない戦いであるとも分かっていた。そのはずなのに。


「そ、そんな、美咲、美咲っ! 美咲─────っ!!」


 見ていられなかった。


 正男は泣きながら崩れ落ち、床に何度も頭を打ちつけた。


「ううっ! くそっ! くそっ!」

 

 ゴン! ゴン! ゴンッ!


「ま、正男さんっ!」


 グッ!


 それをやめさせようと、正男に伸びかけた藤花の手を真珠は掴み、首を横に振った。


 『好きにさせよう』


 真珠は藤花に目でそう伝えた。


 2人は正男が落ち着くまで、ずっと待った。ただひたすら待った。


 30分が経った。


 正男はゆっくり顔を上げた。その顔は憔悴しきっており、若々しい見た目も一気に老けて見えてしまう程だった。愛するひとり娘の死は受け入れ難く、全身を切り刻まれるような痛みに襲われただろう。


「2人とも、よく生き残ってくれました……」


 藤花も真珠も驚いた。この状況でねぎらいの言葉をかけられるとは思わなかった。


「美咲はみなさんのお役に立てましたか? 足手まといではなかったですか?」


「全然。美咲がいなかったら私も藤花も死んでた。美咲がいたから勝てたのよ」


「そうですか。よかったです。美咲は人生……完全燃焼できたんですね?」


「もちろん。ブラック・ナイチンゲール、風原美咲は、完全燃焼したわ」


 真珠は泣いていた。その横で藤花は涙を堪え震えていた。自分も伝えなくてはいけない。ゼロワールドが自分の愛する人間の異常なまでの嫉妬が招いた災厄であると。

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