借金を踏み倒されて困っていたら神仙界に迷い込んだ話(巻之一「黄金百両 おうごんひゃくりょう」)
時は戦国時代。
その親しい友人に、同じ里の
やがて由利源内は松永久秀に召し抱えられて、代官に任命され、老母や妻子とともに大和国へと引っ越すことになった。
ところが引っ越し資金が苦しく、文兵次は頼まれるまま、黄金百両を貸してやった。
その時は、元来の親しい仲なので、借用証や質物はとらなかった。
そこに細川家と三好家の不和によって、河内国から
兵次の家は、両軍に財産をひとつも残らず乱妨され、一日を暮らすのもやっとという状態になってしまった。
弘治年中(1555−1557)にもなると、しばらくは穏やかな世相となったので、三好家が入京してきた。
三好家の家老、松永久秀は
さるほどに兵次は妻子をつれて大和国にいき、由利源内をたずねた。
彼は松永の家中にあって権威たかく、屋敷の中はにぎわっていた。
一方の兵次は衰え、姿は憔悴しきって、富裕なころのおもかげはなかった。
兵次は源内の屋敷近くに家を借り、妻子をおいて一人、源内と会いにいき、これこれこういう者だと名乗った。
はじめ源内は兵次のことを忘れていたが、国許や名字をこまごまときいて、本当かと驚くと彼を招き入れ、酒をすすめ飲ませた。
このとき、借金返済のことには一言もふれず、兵次も言いだすきっかけがないのでそのまま帰った。
手ぶらで帰ってきた兵次を妻は責めた。
「ここまで流浪してきたのも、由利どののお恵みさえあればと思って耐えてきたのに、黄金百両のかわりにわずかの酒を飲ませてもらっただけで、一言もいわずに帰ってくるなんてことがありますか。そんなことでは我らはやがて路傍にて飢え死にしてしまいます」
妻のいうことは至極もっともであると思い、夜が明けるのを待って、再び源内の屋敷を訪ねた。
出てきた源内と対面した兵次が借金の件を切り出すと、
「以前、金子をそなたから借りたことは、今も忘れはしない。その節は誠に助かりました。この御恩は決しておろそかにはしません。その時の手形があれば、是非持ってきてください。額面のとおりにお返しいたします」
「それはないでしょう。あのときは同じ里の親しき仲ということで、お互いに近くに住んでいて浅い縁でもないからと、手形も質物もとらずに金子を貸したんじゃあないか。今の私は
必死に頼む兵次をみて、源内はうすら笑って、
「手形がなくてはいくら借りたかもわからない。だがもし借りた金額を思い出したら、その通りにお返ししよう」
言いくるめて兵次を帰らせた。
そうして半年ばかりして、
兵次の家では、旧年はなんとかしのいだが、新春を迎える手立てはない。
食糧も乏しく衣類も薄い。妻子は飢え凍えて、ただ泣くよりほかなかった。
兵次はこれをみるにつけ堪えがたく、ふたたび源内を訪ねると涙をながして訴えた。
「年も暮れはて、新春も近いが、わが妻子は飢え凍え、また一銭のたくわえもない。炊いて食う米もない。貸した金子をすべて返してくれとはいわないから、せめて妻子が新年を迎えられるくらいの援助をもらえれば、これに過ぎるお恵みはありません」
「それは本当に痛々しいことだと思うが、私もわずかな知行をやりくりしているのだ。今すぐ金子をすべて返すことはできない。明日、とりあえず米二石、銭二貫文をそなたの宿まで持っていきましょう。それでなんとか歳を越してくだされ」
これを聞いて大喜びで我が家に帰り、
「源内が明日、お恵みを遣わしてくれるとのことだ。待ちかまえて、これまでのわびしさを慰めることにしよう」
これを聞いた妻と子は、うれしさかぎりなく、夜が明けるのを今や遅しと待った。
「銭米を持ってきた使いの者がみえたら、ここだと教えてやるのだよ」
そういって、わが子を門前に立たせた。
「米をせおった人がきたよ!」
しばらくして子が知らせに駆けもどってきた。
急いで外に出てみたものの、米を担いできた人は、兵次の家を見向きもせずに通り過ぎていった。
もしや我が家を忘れて通り過ぎたのではと思い、
「その米は文兵次の家に運ぶ米ではないか」
「イヤこれは城より肴の代として遣わされた米である」
またしばらくして、子が駆けこんできて云った。
「たった今、銭をかついだ人がこちらにやってくるよ!」
兵次が飛び出すとその人は家の前を見向きもせず通り過ぎた。
この人も我が家を知らないのかもと思って引きとどめた。
「その銭は由利源内殿より文兵次の家に遣わされたのでは?」
「いいえ、これは弓削三郎殿より
そういって通り過ぎていった。
いいようのない恥ずかしさで立ち尽くすよりほかなかった。
正月のまかないの用意で米銭をいそがしく運んでいる人々を、引きとめ引きとめ、尋ねて問うたが、誰も彼も源内からの使者ではなかった。
そのまま一日中待ち暮れて、だんだん人影もまばらになってきたので、家の中に戻った。
油もなく
米や薪を買いもとめる手段も当然ないので、家族三人、夜もすがら寝ずに泣きあかしたのだった。
兵次はいよいよ堪えかねて、
「なんと口惜しいことだ。さしも固く約束しておきながら、源内め、よくも私を騙したな。このうえはただ彼を刺し殺して、この鬱憤をはらしてやる」
そう考えて、一晩中刀を研ぐと、源内の屋敷の門へと忍びいって待ち構えた。
ここに至って、兵次の心中に急にある思いが浮んできた。
「イヤ待てよ。源内はたしかに私に不義をはたらいたが、彼の老母や妻子には何の罪もない。いま彼を殺せば、その家はたちまち滅んで、罪なき老母と妻子は路頭に立つことになるだろう。たとい他人が私に不義をなしたとしても、私は他人を害するべきではない。天道というものが本当にあるなら、私にもそのうちきっとお恵みがあるはずだ」
考え直してただちに帰宅すると、とにかく小袖や刀を売り代にして、正月三が日の営みをした。
ある朝、兵次は家を出ると、
そのうち思いがけず、ある池のほとりに到るや、誤って転落した。
と、池の水が両側にわかれ、道があらわれた。
道に沿って進むこと二町ほどで、城の
楼門には
うちへ入ってみれば、人気はなく物静かで、幾年経たのかもわからないような立派な古木の松が枝を交わし、並んで生えていた。
廊下をめぐりあるくと奥の殿についた。
御殿の
ただ鐘の音が遙かとおく、
あまりに飢え疲れた兵次は、礎石を枕にして横になって休むことにした。
そこへひとりの老翁がやってきた。
眉や髭のながくのばしたのを生やし、頭には帽子をのせて、足には靴をはき、手には白木の杖をついている。
老翁は兵次をみて、にっこりと笑った。
「やあやあ、久しく会っていなかったな。昔のことをおぼえているかな」
兵次はおきあがってひざまずいた。
「私がここにきたのは初めてでございます。どうして昔のことを知るすべがありましょう」
「げにも汝は飢渇の火に焼かれていて、昔のことをおぼえていないのも道理である」
老翁はそう云って、懐から梨と
食べてみると、兵次は胸のうちが涼しなり、心はさわやか、雲霧晴れゆき空に月が出るかのように、迷いの闇がすべて取り除かれて、過去のことをまるで昨日のことかのように思いだした。
「汝の前世は、むかし、泊瀬の近郷の領主であった。観音を信仰して花や香、灯明を供え、常から詣でていたが、一方で民百姓を貪り、課税は重く、課役は頻繁で、他人の憂を知らなかった。これがゆえに死して地獄・餓鬼・畜生のうち、いずれかの悪道に堕ちるべきところ、観音の大悲をもって罪悪転じ、ふたたび人界に転生できたのだ。しばらくは富貴を極めただろうが、前世の悪業によって、現在はこのように貧しくなったのだ。しかるに汝、源内の不義に憤激して一念の悪心を起したならば、悪鬼らがたちまち汝の後についていって、妻子ともども一家跡方なく滅んでいたところであった。しかるに、すぐに心を改めたので神々これをしろしめし、福神がやってきたので、悪鬼らはすでに遠くへ逃げ去った。総じて悪業、善事その報いがあることは、形ある物に影があり、声を発してこだまするようなものである。今後も、ささいなことであっても悪を慎み、善をもとめなさい。そうすればかならず安楽の地にて一生を暮らせるだろう」
老翁は兵次を教え諭した。
兵次は感嘆して、
「さてはここは人間界にあらず。神や聖人らの住所だろう」
と思い、もののついでに当世の物事についても尋ねてみることにした。
「今の世の中は糸がもつれからまったかのように、各地で闘争がおこっていて蜂の巣をつついたかのようです。結局、どこが栄えて、どこが衰亡するのでしょうか。願わくば世の行先をご教示ください」
「人の心はいっそう豺狼のごとくとなり、他人を殺して自分が立身し、他家を討って自分の領地にしようとする。これがゆえに王法は薄らぎ、朝威は衰え、三綱五常の教えは絶え、五畿七道は互いに争い、乱れていない国はなくなるだろう。臣は君を謀り、君は臣の忠義に応えない。また、父と子の間柄であっても心地は悪く、兄弟でたちまち敵同士となる。幸運にも利にのるときは、卑しい者が高位となり、小身の者が大いに版図を拡げる。運気が衰えて権勢が尽き果てれば、大家や高位高官であっても打倒される。婿を殺し、子を殺せば、一家一族の道理が立たないが、ただただ危難を避けることのみに心を砕き、安心する暇はよりいっそうなくなるだろう」
老翁は当時の諸国の名のある人物らを、かれこれと指折り数えながら、各人の善行悪業とその行末の盛衰を、道徳に照らしながら語った。
さらに兵次は問うた。
「由利源内は今まさに人からの負債を返済せず、己は威をたもち、勢にほこっています。彼もこのままで行末ながくあるのでしょうか」
「源内の主君はそもそも大なる不義をおこなって、権威を邪にふるい、民を虐げ、世を貪っている。人の目に見えない諸天や神々がこれを疎み、神霊はこれを
老翁はそういって、兵次に黄金十両を与え、帰り路をおしえて送り返した。
兵次は一里あまりも進んだかと思うと、山の裏手の岩穴から外に出ることができた。
自宅を出てから、なんと三十日もすぎていたので驚いた。
妻子は彼を待ちわびて暮らしていたので、喜ぶことかぎりなかった。
やがて縁故をたどって山科国の笠取の谷に移り住んでひっこむと、商人となって薪を出し、これを売って渡世とした。
家計も次第に安定してきて、妻子も暮らしへの不安が少なくなってきた。
そののち、永禄庚午の年(永禄十三(1570)年。正確には天正五(1577)年の出来事)、松永久秀は叛逆のかどで織田家によって家門を滅却された。
由利源内もこのとき生捕となって殺された。
日頃の非道のおこないで貪り蓄えた財宝は、残らず敵軍に掠奪された。
兵次はこれを伝え聞いて、年月を数えてみれば、はたして、あれからちょうど三年後の出来事であった。
兵次の後裔は今も残っていて、笠取の谷に住んでいるということだ。
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