湯治にいったら仙境にまよいこんだ話(巻之二「十津川の仙境 とつがわのせんきょう」)

 和泉いずみの堺に薬種を商う者がいて、名を長次といった。

 長らく瘡毒を患っており、紀州は十津川とつがわに湯治にやってきた。

 湯質が身体にあったのか、病は十四五日の間に平癒した。


「十津川温泉の奥には人参や黄精おうせいといった薬草が生えることがあり、見つければ、ひとところにたくさん群生していると数年来伝え聞いている。湯治中の慰みに近所をさがしてみよう」

 ある日、長次はそう考え、下僕を宿におき、ただひとりで山深くわけいったところ、道に迷ってしまった。

 そこでひとつの谷をおりてみたところ、川上から美しい籠が流れてくるのを見つけた。

「この川に沿ってのぼっていけば人里があるにちがいない」

 長次は川上をめざしてのぼっていった。

 日はすでに暮れかかり、鳥もねぐらをあらそい探して、鳴く音もかすかである。


 こうして十町ばかり進んだかとおぼしきところで、岩をくりぬいた門にであった。

 門をくぐると、そこには茅葺かやぶきの家が五、六十軒ほど並んでいた。

 各家は石垣に苔が生えて一面みどり色で、竹の折戸はものさびしく、蔦かずらが冠木かぶきを飾っている。

 犬は吠えながらみぎりをめぐり、鶏は鳴きながら屋根にあがる。

 桑の枝が茂って、麻の葉に覆われて、まこと住みならされた里村である。

 木樵が積み上げた椎柴、臼で搗いて干されている粟やうるしねをみるに、とはいえ貧しい暮らしぶりではなさそうである。

 住民の服装は古風で、素袍すほうに袴、頭には烏帽子を着し、行き交う様子はものしずかで威儀正しい。

 立ち尽くしている長次をみて、住人らは不審に思い、かつ驚いた。

「何者なればこの里に迷い込んだのか。この里は常人には知ることのできない場所である」

 問われて長次はありのままのいきさつを語った。

 そこにひとりの老人がやってきた。

 衣冠ただしく、蓬の沓をはき、赤木の杖をついて、

「我は三位中将さんみちゅうじょうである」

 と名乗った。

「ここは山深く、巌がそびえたち、熊や狼が群なして走りまわり、狐や木霊こだまがあそびまわる地である。そんな場所に、日も暮れてこのまま放置するのは、水におぼれている人を見ながら助けないようなものである。こちらへいらっしゃいませ。宿をお貸ししましょう」

 長次は老人に連れられて、彼の家へとむかった。


 家の中は汚れておらず、召使いの男女たちもよく統制されていて、長次が一間に通されると、灯火をかかげ、座がととのえられた。

 座がさだまったところで、長次は問うた。

「ここは思いもよらない里村ですね。どのようにして住み始めたのでしょうか」

「この村は浮世の難を逃れたひとびとが隠れ住んでおります。もし、強いてそのいきさつをお話しすれば、あなたに無用なうれえをもたらすことになるでしょう」

 老人は眉を顰めてこたえた。

 それでも長次は強いてこの村に住み始めた所以ゆえんをたずねるので、老人は語り出した。


 我は小松の内府だいふ重盛しげもり公の嫡子、三位中将維盛これもりといいます。

 祖父の大相国清盛だいしょうこくきよもり入道は、悪行おおく重なり、人望を失い、父の内府は早世されて、伯父の平宗盛むねもり公世の非道不義は過ぎたものでした。

 そのほかの一門の輩の多くはみな奢りを極めて栄華を誇れば、家運はたちまちかたむきました。

 東国には源兵衛佐頼朝ひょうえのすけよりともが譜代の家人を率いて義兵を挙げ、北国では木曾冠者義仲きそのかんじゃよしなかが一族郎等とともに謀反をおこしたのです。

 そのほか諸国の源氏がつぎつぎと蜂起し、集結するのを、こちらに馳せむかって、あちらは攻め寄られと、一進一退をくりかえすうち、わが軍に利はなく、つぎつぎと味方の軍兵は討たれて、とうとう木曾冠者のために都を追放され、摂津国せっつのくにの一ノ谷にこもることになりました。

 しばらくは安穏と暮らしたのですが、それも束の間、源九郎義経よしつねによってここも破られ、通盛みちもり敦盛あつもりをはじめとした一門の多くはここで滅びました。

 滅亡を目の当たりにして、魂を消し、肝を冷やし、憂き目を見聞きする哀しさは、生まれ変わっても忘れることはできないでしょう。

 そうして讃岐国さぬきのくに屋島やしま洲崎すざきに城郭を構えて、残った一門と共に立てこもりました。

 故郷は雲井くもいの彼方に隔たり、残して別れた妻子のことを想うと、身は屋島にありながら心は都へと向いてしまい、何事も味気なく、行末にはとても望みはありません。

 落ち着かない心のままに、譜代の侍である与三兵衛重景しげかげ、童の石童丸と、操船の心得のある舎人の武里たけさとの三人を召しつれて、屋島の内裏を忍びでました。

 そうしてまず阿波国あわのくに由木ゆうきの浦に着いたので、私は次のように詠みました。


 おりおりはしらぬうらぢのもしほぐさ

 かきをく跡をかたみともみよ


 重景はこれに返して、


 わがおもひ空ふくかぜにたぐふらし

 かたふく月にうつる夕ぐれ


 石童丸も涙をおさえながら、


 たまぼこの道ゆきかねてのる舟に

 こころはいとどあこがれにけり


 それから紀伊国の和哥わか、吹上の浦をすぐに過ぎ、由良の湊にて舟から下りて、恋しき都を眺めやると、高野山に詣でて、滝口時頼たきぐちときより入道に会って案内してもらい、数々の院や谷地を拝んでめぐりました。

 今度は熊野に参詣しようということで、三藤さんとうのわたりの藤代ふじしろから和哥の浦、吹上の浜、古木のもり蕪坂かぶらざか千里ちさとの浜の近辺、岩代いわしろの王子も越えて、岩田川にて水垢離みずごりを修して、そこで詠みました。


 岩田川ちかひのふねにさほさして

 しづむわが身もうかびぬるかな


 そうして本宮ほんぐうに詣でつつ、新宮や那智なちも残りなく巡って、浜の宮より乗船しました。

 そのとき磯の松の木に次のとおり刻みました。


 権亮ごんのすけ三位中将平維盛、戦場を出て那智の浦に入水す。

 元暦元年三月廿八日、維盛廿七歳、重景同年、石童丸十八歳

 生れてはつゐに死てふことのみぞ

 定なき世にさだめありける


 これによって、世間には入水したと知らせながら、実は生きながらえて、今のこの山奥に隠れ住みはじめたのです。

 その後、肥後守貞能さだよしが我が跡を探しもとめて訪ねてきました。

「平氏の一門は没落し、みなことごとく壇ノ浦にて入水されました。都に潜伏していた平氏の類族も根を絶たれ、葉を枯らされました」

 貞能は一門の結末を語って聞かせてくれて、よくぞ生き延びられましたなと、私の生存を知って、哀しみのなかにも慰めをみつけたようでした。

 貞能も里村に住み始めて、われらで田を植え、薪を集め、清風朗月に心をすまして、物静かに疲れた魂を癒しました。

 人里から離れて、外から訪れる者も便りもありませんので、花が咲くのを春と思い、木の葉が散れば秋の訪れを知り、月の満ち欠けをかぞえて、月がなければ晦日だと思って暮らす身となったわけです。

 貞能、重景、石童丸の子孫が拡がり、こうして家居を並べて住むようになったわけです。

 きっと頼朝が世を獲ったのでしょうなあ。

 今は誰の世となっているのでしょうか。


 長次は大いに驚き、畏れ多いことだと頭を地につけて礼儀をただした。

 一時の山住まいというのは世間ではよくあることだと思っていたが、まさかこのようなやんごとない身分の御方だったとは思いもよらなかったのだ。

「いやとよ。今はもうそのように礼を尽くされるような人物ではないのです。さあ、他の者も来てくれ」

 三位中将がそう云うと、貞能、重景、石童丸が出てきた。

 いずれも六十歳ぐらいにみえる。

「いずれにしても、こう打ち解けたところで、その後の世の移り変わりなど聞かせてくださらぬか」

 貞能がいうので、長次は居住まいを直して、

「さらば、ざっとではございますが、私が伝え聞いていることを語ってお聞かせいたしましょう」

 とおよそこれまでの世の流れを語り出した。


 サテ、平氏の一門が西海の波に沈まれて、兵衛佐頼朝が天下を治めましたが、いくらも経たないうちに病死しました。

 蒲冠者頼範かばのかんじゃよりのり、九郎判官義経はみな頼朝に討たれたので、頼朝の子息の頼家よりいえが世を獲りました。

 頼家は嫡子がいないまま病死したので、その弟の実朝さねともが跡を継いで世を治めました。

 その後、頼家の妾が子を産んだことを伝え聞いたので、尋ねだして鶴岡八幡宮の別当にし、禅師公暁くぎょうと名乗らせました。

 和田、畠山、梶原らの一族は実朝の代に討滅されました。

 その後、実朝は鶴岡八幡宮に社参の折、公暁によって殺害されました。

 実朝の跡は北条義時よしときが奪い、天下の権を獲りました。

 北条の世は九代までつづいたが、相模守高時たかとき入道宗鑑が大いに驕ったので国が乱れ、新田義貞が鎌倉を滅ぼしました。

 新田義貞は足利尊氏といくさになり、足利が勝利し、新田は滅びました。

 尊氏の子息の義詮を京の公方とし、二男の左馬頭基氏もとうじを鎌倉の公方と定めて、天下はしばらく穏やかになりましたが、武家が世を獲って権威が高くなる一方で、王権は地に落ち、あるかないかといった有様でした。

 のちに京都鎌倉の公方は不和となり、それに乗じて鎌倉の執権の上杉一族が公方を追放しました。

 同じ頃、京都の公方も権威を失って、諸国の武士は互いにかどが立って、天下は再び大いに乱れ、合戦やむことなしといった状況になりました。

 三好修理大夫しゅりのだいふの家人、松永弾正は畿内と南海に威勢を悪逆にふるい、今川義元は駿河と遠州を支配し、国司北畠具教は勢州に在った。

 武田晴信は甲斐と信濃の両国で版図を拡げ、北条氏康は関八州にまたがる勢い。

 佐竹義重は常陸に在し、芦名盛高は会津を領国として、長尾景虎は越後から近国を威圧する。

 朝倉義景は越前を守り、畠山の一族は河内に在す。

 陶尾張守は周防と長門を押領し、毛利元就は安芸にて台頭し、尼子義久は出雲から隠岐、石見、伯耆まで拡げた。

 豊後には大友、肥前に竜造寺、そのほか江州に浅井および佐々木、尾州には織田、濃州に斎藤、大和に筒井がおり、以上のほか諸国群邑に結党し、軍兵を集め、相互いに里村をめぐって争い、攻めあい、戦い、奪い取る。

 いにしえに安徳天皇が西海におもむかれた寿永二年癸卯(1183)より、いま弘治二年丙辰の歳(1556)まで、星霜三百七十四年、天子は重ねること二十六代、鎌倉は頼朝より三代、北条家九代、足利家十二代、京都の足利は今や十三代目の新将軍である源義輝公となっております。


 長次が語り終えると、きいていた三位中将は不意に涙を流した。

 夜もすでに更けて、山の中は物静かで、梢をつたっていく風の音が軒近くにきこえる。

 長次は魂が澄みわたり、涼しい心地がした。

 三位中将はいろいろと酒をすすめてきた。


 夜も明けて、山の端に紅く横雲がたなびき、鶏鳴もはっきりと聞こえてきた。

「それではこのあたりで失礼いたします」

 長次は拝礼を尽くして立ち上がった。

「われらは仙人にあらず、幽霊にもあらず。多くの年を重ねられたことは思いもよらぬ幸運であった。われらのことは、汝帰っても世間に語ることなかれ」

 三位中将はそういって見送りについてくると、別れ際に次のように詠んだ。


 みやまへの月はむかしの月ながら

 はるかにかはる人の世の中


 三位中将が家の中に戻っていくのをながめてから、長次はもと来た切通しの門を出て、一町ほど歩くごとに竹の枝を挿して目印としながら、十津川の宿へと帰った。


 翌春、酒と肴をととのえて、以前通った山路にわけいり、あの里村をたずねてみたが、ただ古松こしょう老槐ろうかいがよこたわり、巌がそびえてちがやすすきが茂って、樵の仕事をする音と鳥の鳴き声がかすかに聞こえる。

 草刈りの通った道の先の谷には水が流れるのみで、かつて挿した目印の竹枝も見当たらず、途方に暮れて仕方なくひきかえした。

 そもそも彼らは仙境にて悟りを得た人々だったのであろう。

 であれば再びまみえることがかなわないのも道理である。

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