第2話

「泰代ちゃーん、一体どうしたの?」


 僕が連れてきた女の子を見るなり幼馴染である薄波泰代だと気づいた母、彼女の手を掴むと残像を残すほどの勢いで風呂場へと消えていった。


 脱衣所から聞こえるくぐもった声、「悠人ー、あんたのジャージ持ってきなさーい」と強く響く。


「まったくー、母さんは後先考えないんだから……でもよく泰代だって直ぐに分かったなー」


 部屋の収納からジャージを取り出すと脱衣所に投げ入れた。下着ばかりはなんとかしてもらうしかない。浴室からは母さんの明るい声と遠慮がちな泰代の声が湯気に乗っていた。


 いつもだったら直ぐに机に向かうのだが、今日ばかりは気になってふたりを待っていた。


 キッチンに目を移すと、中途半端な洗い物がシンクに積まれている。どうやら母は食器洗い中だったのだろう。


「まったくかーさんはおっちょこちょいなんだから」と、腕捲りをして洗い物を引き継ぐ。

 キレイになっていく食器を見ていると心も明るくなる……そうだ!


 あんな状態で立っていたくらいだからまだ食事をしていないだろう。


 この状態で手早く作れるといったらカレーかなぁ。

 冷凍庫から豚肉を取り出してレンジで解凍、根菜類と共に軽く炒めて圧力鍋で煮込み、飴色玉ねぎとルーを一緒に入れる。スパイスをちょい足ししたおかげでピリッとした匂いが部屋中を包んだ。


 それとプリンを作っておこうかな。食べ終わる頃にはちょうど良く固まっているだろう。

 

 料理を終えて待っていると浴室からドライヤーの音と母さんの陽気な声が聞こえてきた。


「んー、カレーのいい匂いがするわねー、さすがは我が息子、気が利くわ。泰代ちゃん折角だから食べちゃいなさい」


 母に連れられる泰代、きれいな黒髪はまるで日本人形のように美しい。ただ、伸びきった前髪が顔を覆い俯いているせいで表情が読み取れない。


「い……いただきます」


 か細い声を発すると、スプーンを拾い上げて下を向いたまま食べはじめた。


 僕が口を開こうとすると母は泰代に見えないように人差し指を唇に当てる。食べている間は黙ってろってことか。


 ポロッ━━泰代の頬に一筋の涙が頬に道を作って雫となって顎からこぼれ落ちた。


「ど、どうしたの? もしかして口に合わなかった?」

「違うんです。久しぶりの温かい食事が嬉しくて……。温かいお風呂に温かいご飯、そして安心できる環境……こんなに心が落ち着くのは何年ぶりだろうって思ったら」


「……」

 僕には何も言えなかった。彼女の言葉、当たり前だと思っていた生活……どんな言葉を並べても浅い慰め……もしかしたら嫌みとして聞こえてしまうかもしれない。


「しょうがないわねー、食べてからゆっくり話そうと思ったのに。悠人、小学校の時に泰代ちゃんが転校したのは覚えてるわよね。実は両親が離婚したからなの……母方に引き取られてたんだけど、母親が再婚して戻ってきたみたいなの」

「それじゃあ、もっと早くに家に来てくれれば良かったのに」

「悠人くん……わたし……何度も石碑の裏であなたを見ていたわ……何回も声をかけようとした……けれど……今の私には悠人くんはまぶしすぎたの」


 泰代は肘をテーブルについて目を覆う。ポタリ、ポタリと涙が垂れた。


「そんなことは関係ない、僕たち幼馴染みじゃないか」

「あのねー悠人、もし逆の立場だったらどう? 素直に助けてって言える?」


 確かにそうだ。ボロボロの服、ボサボサの髪、普通に生活をしている友人を見たら……惨めになってしまうかもしれない。


「どうして今日は姿を見せてくれたの……」

「分からないの、神様に背中を押されたような気がして……ずっと悠人くんを石碑の裏から見てた……そうしたら『今日が君の新たなスタートの時だ』って背中を押されたの」


 不思議なこともあるもんだ。そういえばっ!「僕も昔、石碑にお願いをしたら不思議な声が聞こえた気がする……その通りにしたら全部うまくいったんだ」


「泰代ちゃん、細かい話しは後にしてさっさと食べちゃいなさい。その後にこれからのことを話しましょう」


 母さんのその言葉にスプーンを握り直し、泰代はカレーを食べ始めた。その姿は怯えているようにも感じる。回りをチラチラと気にしては震え、物音にピクリと反応しては震える。よっぽどひどい目にあってきたのだろう。


「決めたわ!」


 母親がガッツポーズをして唐突に立ち上がった。急な大声に泰代はビクッと体を震わせ食べる手を止めた。


「母さん、急に大声を出したらビックリするじゃないか」

「ごめんごめん、泰代ちゃんをうちで引き取るわ!」


 僕と泰代の視線は母に釘付け、とんでもないことを良く言ってはいたが、さすがにこれにはビックリ。


「急に何を言い出すんだよ。そんなことできるわけないだろ」


 母は僕の言葉を無視して泰代に近づくと、ゆっくりと手を肩に乗せて優しい笑顔を向ける。


「泰代ちゃんはどうしたい? 家に戻りたい、おばさんたちと暮らしたい?」


 俯く泰代、無言の時が流れる……部屋は静寂に包まれ彼女が言葉を発するのをじっと待つ。

 通りすぎる車の音を何台聞いただろう。ポツリポツリと口を開いた。


「う……うち、ここで……暮らしたい。もう……家には帰りたくない」


 真剣な表情、ハッキリとした口調。おどおどしていた泰代からは考えられない大きな声だった。しかし、すぐに恥ずかしくなったのか顔を赤らめて俯いた。


「おっけー、それじゃあおばさんが明日、いろいろと手続きしてあげるわね。それと、来週からは働いてもらうわよ。おばさんの勤めてる病院の売店でスタッフを募集してるのよ。生活費はわたしが出すから、給料で好きなことをしなさい」


 母親がサムズアップした。そんな急に言われても泰代も困るだろうに……。


「お……おばさん。ありがとうございます。わたし頑張ります……働いてお給料を入れて恩を返していきたいです」

「かーさん……急に働けだなんて、本当ならまだ高2なんだよ」

「悠人くん……いいんです。わたしの居場所を作ってくれたおばさん……一生懸命に働きます」


 母はニコリと笑う。


「悠人、時間があるときに泰代ちゃんに勉強を教えてあげなさい。何年かかっても高卒認定試験を取らせてあげましょう」


 力強く握られた拳をじっと見つめる母。僕と泰代は呆気にとらわれるばかりであった。


 


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る