カラッポ姫は充実している
営業終了の札を下げた、扉がコンコンと叩かれた。
「……はい?」
「――こんばんは! 君だけの王子様、ルイフォンだよ!」
あたしは黙って、扉を閉めた。
もちろん鍵もかけたけど、すぐ隣の腰窓から、彼は当たり前に入ってきた。
「お久しぶり、アナスタジア。今夜は月が綺麗だよ」
当たり前のように部屋を縦断し、食卓に座る。あたしはもうツッコむのも面倒になり、半眼になって彼を睨んだ。
「なにが久しぶりよ、馬鹿王子。三日前にも来たばかりでしょ」
「三日も空けば久しぶりだろ。本当は毎日会いたいのに」
「こっちは五年に一度で十分だっての。こんな夜遅くに、いったい何の御用?」
問い詰めると、彼はやっぱりニコニコしながら、当たり前のようにさらりと言った。
「王宮(いえ)が騒がしくて、眠れないから逃げてきた。今夜泊めておくれよ。寝床は君と同じベッドで良いから」
「いいわけないでしょ!」
白銀色の頭を引っぱたく。彼は、フニャリと笑った。
「冗談。なにも用事は無いけど、どうしても今夜、君の顔が見たくなったんだよ」
……ヘラヘラ、ふわふわ、捉えどころのない笑顔で、軽薄な口調。いつもいい加減なことばかり言う男。あたしは呆れて嘆息した。
「……まあ、いいわ。ちょうど休憩しようとしてたところだし。コーヒー淹れるけど飲む?」
「ありがとう、お気遣いなく」
「自分用に淹れるついでの出涸らしよ」
そう言うと、彼はまた黙って目を細めた。
馬鹿王子こと、ルイフォン・サンダルキア・ディルツが、こうして工房に日参するようになって一ヶ月。その度にコーヒーくらいは出してやっているので、こちらも慣れたものである。
ケトルの中でグツグツと沸いた湯をドリッパーに注ぎ、室温で冷えたままのサーバーへ落とす。さらに冷えたカップへ。そうして少し冷ますのだ、彼は猫舌だから。
お砂糖は、庶民向けの黒砂糖。貴族様御用達の白い精製糖じゃなくていいのかと聞いたら、こっちのほうが好きなんだと言った。植物の自然な甘みが、コーヒーと良く合うんだって。酔狂な王子だと思いながらも、実はあたしも同意だった。
飴のように固まった粒を一つ、一混ぜ。溶かしきらずに持っていく。そうすれば飲んでいくうちに溶け出して、最後の一口はご褒美みたいに強く甘いの。
同じように淹れたコーヒーを二つ、テーブルに置こうとすると、いつの間にやら先客のサンドイッチが居た。ルイフォンが手荷物から出したらしい。
「夕食?」
「うん、食べ逃してしまってね、通り道でさっき買ってきた」
「どうせなら食べてから来なさいよ……あたしのぶんもあるんでしょうね」
「もちろん」
ハムとチーズのホットサンドと、クリームバターにフルーツを混ぜ込んだデザートサンドが三つずつ。並べてから、ルイフォンはあたりをキョロキョロ見回した。
「あれ? スミス・ノーマンは出かけてるのかい」
「ノーマンならしばらく居ないわ。西区の病院に入院中」
「えっ!」
思いのほか大きな声を上げ、ルイフォンは立ち上がった。何を慌ててるのかしら。あたしは勝手にサンドイッチをぱくつきながら、
「目の治療がね、もしかしたら出来るかも知れないって、グラナド伯爵が紹介してくれたのよ。まだ成功症例は少ないけど、今より悪くなることはないはずだから、ダメ元で受けてみないかって」
「そ、それじゃあ今夜は帰って来ないのか?」
「今夜どころか先週から、あと二、三ヶ月は留守よ。おかげですっかり、コーヒーを淹れるのが上手くなっちゃった」
言い終えるより早く、ルイフォンはマントを羽織った。どうしたんだろうと眺めるうちに、はっと気が付いて、あたしは大笑いした。
「なにあんた、遠慮してるの? 今? あっははは!」
「当たり前だよ。女の子の一人暮らしと知ってれば、さすがの僕もこんな夜中に訪ねやしないさ」
「昼間でも歓迎した覚えはないけど? っていうか今更。あはははは意外、あっそう。そういうとこちゃんと紳士なのね、ふうん」
あたしにケラケラ笑われて、彼は気まずそうに頬を掻いた。
ついさっき、君のベッドに入れてくれなんて言ったのにね。なんてことはない、この男のそれはすべて冗談で、あたしが赤面でもしたら面白いなって、それだけのことなのだ。
――あたしが、シャデラン男爵家を出てもう四ヶ月。この職人街で、少年の格好をして暮らしてきた。
一度は工房を出て、そして戻ってきたとき、ノーマンには二十歳の女であると明かしたけれど、彼以外には十四歳の男子で通している。もちろん自衛のため。この男社会な職人街で、女と明かすのはまだ少し怖かった。
「でも、あんたみたいな軽薄なナンパ男にもそんな倫理観があるんなら、自衛なんて要らなかったかもね。職人達はみんな気の良い連中だし、仕事にはマジメだもの」
「いや、それは……まだ、警戒心は持っといた方が良いと思うけど……」
彼はなにやらぼそぼそ言って、とりあえず、着座した。
そうして二人で、サンドイッチを食べる。ノーマンの分は、あたしがホットサンド、彼がデザートサンドを担当した。
もぐもぐしながら、ただ、所感を口にする。
「おいし。これどこで買ったの?」
「すぐ裏のレストラン。ほら分厚いステーキの絵が描かれた看板の」
「へー、あそこ持ち帰りのメニューなんかあったのね」
「色々あったよ、夜だから軽いのを選んだけど、もっと
「じゃあこんどステーキサンド買ってきて」
「良いけど自分のぶん払いなよ、五十ユイロ」
「なにそれ無理! 一週間食べていけるじゃないの無理!」
「だろ? だから生肉買ってきてココで焼こう、それなら半額以下で済むよ」
「王子様、料理できるの」
「できるわけないだろ」
「あたしだって出来ないわよ」
「大惨事だなあ」
クックッと笑い出すルイフォン。あたしも釣られてクスクス笑った。
夜食を食べ終えて、コーヒーのおかわりを作る。
さっきより少し熱めに淹れたそれを、また二人でちびちび啜る。
交わした会話は、他愛のない雑談ばかりだった。食べ物の話、最近の流行の話。気温とか、天気とか、ちょっとしたドジやラッキーな出来事とか。
別に面白くもない、本当に、なんの意味もない会話が続く。
どのくらい経っただろう――工房の時計がボーンボーンと音を鳴らした。ルイフォンは、すぐに立ち上がった。
「長居したね。じゃあ、僕もう帰るよ」
「え。あ、そう?」
一瞬、返事が遅れたのを、なにか妙な勘違いをしたのだろうか。彼はにやりと笑って、テーブルに手を突き身を乗り出した。
――アイスブルーの瞳――端正な顔が、すぐそばまで近づく。
「本当に泊まっていってもいい?」
甘い囁き。あたしの顎を掴み、クイと持ち上げるルイフォン――その、おでこに向かって、あたしは自分の額を打ち付けた。
ゴツッ、となかなか大きな音がした。
「あいてっ――」
「馬鹿王子! 早く帰れっ!」
「わかったわかった、いったー……内実共に石頭だなぁ」
「あんたが軽すぎるのよ、尻も頭もっ! はい今すぐ出てゆく出てゆく!」
「押すなよ転ぶ、わかったって帰るから!」
扉の外まで押し出すと、彼はたたらを踏んで体勢を立て直した。それから一度振り返り、あたしの顔を、ニコニコ見つめた。
「おやすみアーニャ。……ありがとう」
……ありがとう?
コーヒーのお礼かしら。どちらかというと、サンドイッチのほうが高く付いてると思うけど。
あたしはふと、ある予感がした。窓から顔を出し、確認する。
「ねえあんた、まさか今夜、寝るとこないってことはないわよね?」
ルイフォンは背中を向けたまま、ひらひら手を振った。……気のせいだったみたい。
あたしは安心して、ベエと舌を出した。
「アーニャって呼ぶな。――おやすみ」
「また来るよ」
「もう来るなっ」
あはははっ、と、軽薄な笑い声が夜道に響く。
そうして、ルイフォンは王宮へと帰っていった。
ほんとあいつ、なにしに来たんだろう。
戸締まりをし、サンドイッチのゴミと空いたカップを片付ける。洗い物の途中で、ふわっと大きな欠伸が出た。時計を再度見上げると、思いのほか時間がたくさん経っていた。本当はもう少し作業を進めるつもりだったけど……。
いいや、今日は寝てしまおう。
あたしは洗面所に向かった。
顔を洗い、口を漱ぎ、二階の寝室へ上がって寝間着に着替える。そうしてあたしの一日が終わる。
今日もまた、何の変哲も無い一日だった。
あの白銀髪の王子様も、どうせまた訪ねてくるんだろうしね。
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