僕は何も聞きたくない
ワルツの重奏と、人々の声が聞こえる。喧噪というわけじゃない。王宮お抱えの楽団に、王侯貴族の集まりだから、それは洗練されたお上品な音のはずだった。
それでも、僕には騒音にしか聞こえない。扉も窓も閉め切って、それでもやはり気になって、とうとう耳栓まで挿した。
「……うん。これでなんとか、仕事に集中できそうだ」
そう呟き、ペンにインクを吸わせた。デスクに山積みにした書類に、筆記していく。
そうしているうちに、だんだん眼鏡がズレてくる。分厚い硝子レンズで重たい眼鏡は、こうして下を向くとすぐ落ちてくるのだ。
一枚、作業を終えるごとに摘まんで直して、僕は仕事に没頭していた。
声は、唐突に聞こえた。
「――おい! ルイフォン!」
名を呼ばれ、跳ね上がる。インクがデスクに飛んでしまった。布巾で拭いながら、僕は後ろを振り向いた。
「なんですか、リッキ兄さん。ひとの部屋に入るときはノックをして下さいよ」
実は耳栓のせいで聞こえなかったかもしれないけど、言い切る。どうせこの男なら、ノックをしなかったに違いないから。
案の定、リッキ――第二王位継承者、リヒャルト・ニールセン・ディルツは、フフンと鼻で笑うだけだった。もしノックをしていたら、鬼の首を取ったように責め立ててきただろうが。
四つ年上の兄の前で、僕は耳栓を取ろうとし、
「この馬鹿者が、こんなところで何をやっているんだ!? 馬鹿なのか!」
――やめた。言葉よりむしろ、耳栓越しでも鼓膜が震えるほど大きな声にげんなりして。
実際、この次兄は地声でも常に大きくて、耳栓したままでも全く会話に支障がない。僕自身は全くトーンを変えず、足を組み、頬杖をついた。
「僕は今日、騎士団長としての仕事が立て込んでるから、夜会には不参加って言ったでしょ」
「そんなものお前の普段の仕事が遅いからだろう、怠け者が!」
「年に一度、騎士二千人の一年間の評価をまとめる日なんです。前倒しで手を着けちゃダメって、国法で決まってるやつ。次男だからって騎士剣を持ったこともない兄さんは知らないでしょうけど」
「知るかそんなもの! うるさいやつだっ!」
「はっはっはっ自己紹介は要りませんよ兄さん、僕たち長い付き合いじゃありませんか」
リッキは、本当にうるさいだけの男だった。当人は僕よりも背が低く、お世辞にもハンサムとは言えずかといって人相が悪いわけでもなく、むしろアナグマに似て愛嬌がある。もしかするとこの声も、自分を大きく見せようという心理かもしれない。やっぱり迫力なんかないんだけど。
そんな次兄を、僕はきっぱりと見下していた。それを隠してもいない。お互い様だけどね。
「今夜は妹の社交界デビュー、並み居る婿候補の選抜はライオネル兄さんが受け付けでしょ。僕が出る必要はないはず。壁の華(はな)役は、リッキ兄さんがお願いします」
言い捨てて、背を向ける。実際、本当に仕事で忙しかった。
騎士団長――王族の中でも、継承権の低い男児ゆえ半ば自動的に就任させられたとはいえ、飾りというわけではない。ひとつの軍団、大型施設の管理人なのだ。やることはそれなりに山積みだった。
しかし、次兄はまだ退かなかった。僕の肩に四角い顎をのせ、すぐ耳元で、
「いいから来い。お前に会いたいって言ってるんだよ、フラリアの王女様が」
ぴくりと、眉が上がる。僕が表情を強張らせたのが面白かったのか、リッキはにやにやと下品に笑っている。
そして不意に、僕の眼鏡を鷲掴みにした。力任せにむしり取ると、ぽいと後ろに投げ捨てた。
「あっ――」
上げかけた悲鳴は、リッキの大声に遮られる。
「眼鏡(こんなもの)付けて、綺麗な顔を隠しちゃだめだろう、第三王子。お前の価値は、それしかないんだから」
僕はリッキの手を払った。絨毯に落ちた眼鏡を拾い、きちんと畳んでポケットへ仕舞う。
そして無言のまま、夜の宴に身を投じていった。
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