【新章】カラッポ姫と嘘つき王子 序章~婚約者のふたり~

「あっすごい、もうトイレを覚えたのね」


 わたしが言うと、赤猫は尻尾をピンと立て、わたしの足に体をスリスリ寄せてきた。甘えているというよりは、褒めて褒めてと言いたげだ。彼女の望み通りちいさな額をヨシヨシ撫でる。


「賢い子ね、ずたぼろ」

「にゃあ」


 さてと……。わたしはその場にしゃがみ込んだ。

 館の程近く、採光窓の真下にあるふつうの花壇。花も芽もなく、土砂が盛られただけの状態だ。これが赤猫ずたぼろ専用のトイレになっている。

 躾が成功したことを喜びつつ、わたしは小さなシャベルを持って、


「それじゃあお掃除する間、待ってて。終わったら猫用のおやつをあげるわ」

「にゃあ」


「いけません奥さまっ!」


 後ろから大きな声をかけられて、猫と一緒に振り向く。グラナド城のメイドと、庭師と下男が大慌てで駆け寄ってきていた。


「おやめください、お手が汚れますわ」

「えー、どうして? ずたぼろはキュロス様の猫よ。わたしも飼うことを了承したし。キュロス様がお忙しいときは、わたしが世話をするべきじゃない?」

「使用人にお任せ下さいませ!」

「そうですそうです、トイレの躾をしてくださっただけで十分です」

「奥様はただ子猫を膝に乗せて、撫でて愛でればよろしいかとっ!」

「わたし、生家でも家畜の世話をしていたから抵抗はないの。……そんなにダメかしら」

「ダメです」


 言い切られてしまった。


 なるほど、本当にダメみたい。それでもわたしは引き下がらなかった。

 だって生き物って、こういう世話も含めて可愛がる、育てるということじゃない? それで健康状態や成長に気付くわけだし。

 それでも、使用人達が言うことはわかる。グラナド城にはひょっこり突然の来客があるし、キュロス様がお留守の場合、女主人のわたしが対応しなくてはいけない。ドレスの裾が汚れていたら大惨事だ。

 わたしは彼らに条件交渉をした。日課の農作業中に限り、作業服と手袋を付けているときのみ、さらにしっかりと石鹸で手を洗うという約束で、許可のもぎ取りに成功。


「わぁい、やったっ。ありがとう!」


 ウキウキしながら手を洗う。そんなわたしを眺めて、使用人達はクスクス笑う。


「おっしゃることが、キュロス旦那様と同じ。ご夫婦にお子様が生まれたら、どんな子育てをなされるんでしょうね……」


 ――お、お子様っ?

 ギョッとして振り向く。彼らはますます楽しそうに笑いながら、自分たちの仕事場へ戻っていった。

 あとに残されたのは、全身を赤くしたわたしと、赤い毛をした子猫のみ。早くおやつをよこせと主張して、わたしの足に頭突きをしていた。



 子ども……。

 ……子どもかぁ。


 お腹が満たされ、眠った猫を抱いて、わたしは館の廊下を進んでいた。


 ――キュロス・グラナド伯爵の子を産み、育てる。

 これは、わたしが初めてこの城に来た日……彼の顔すら知らなかったときから、ずっと覚悟していたことだった。

 想いが通じ合い、正式に婚約をした今は、嫌な気持ちなど何もない。


 ……それでも、不安があった。

 グラナド家なら最高の産医と乳母が雇える。家事はメイドが、わたしの心身は侍女が助けてくれて、窶(やつ)れることはないだろう。……出産が怖いわけでもない。陣痛は鼻からカボチャを出すような痛さだと言われるけれど、わたし鼻にカボチャを入れたことがないためピンとこない。でもなんとなく耐えられそうな気がしている。最近気付いたけど、わたしって基本的に、体が頑丈に出来ているのよね。

 だから、そういったことに不安なわけじゃなくて……。


 わたしの部屋、元貴賓室である扉を開けようとして、思い直し、踵を返す。そしてすぐ近くにある、キュロス様のお部屋をノックした。


「キュロス様。マリーです。今、お手空きでしょうか?」


 と、声をかけ――扉を開いたのは、執事のウォルフガングだった。グラナド城の老執事は、細長い体を丁寧に曲げて、わたしを部屋に入れてくれた。


「いらっしゃいませ、マリー様。旦那様はただ今、僕とお仕事の相談中でした」

「あらごめんなさい。ではまたあとで」


 去ろうとするわたしを、ウォルフガングと、その奥にいたキュロス様が呼び止める。

 彼はデスクにいて、足を組み、分厚い紙束を抱えていた。


「もうじき終わる。中で待っていてくれ」


 わたしはウォルフガングに導かれ、ティーテーブルのソファに腰を下ろした。

 キュロス様は、書類を見下ろし少し難しい顔をしていた。

 ウォルフがそばに付き、穏やかな声で淡々と話す。


「――して、イプサンドロスの天然真珠商協会が、養殖真珠産業の排斥運動を起こそうとしております。あんな安値で売られては、天然ブランドが食い詰めてしまうと」

「うん……大量生産が上手くいったのはいいが、さすがに値段が下がりすぎだな」

「グラナドはどちらへ付きますか」

「それは断然、養殖側だ。技術の発展を否定してはいけないし、科学的に検証した裁判で、品質も天然と差違がないと判決が出てしまった。どう粘ろうとも、天然業界の独占市場を守り続けるのは不可能だ」

「しかし薄利多売では宝石商が成り立ちません。排斥運動の参加者は半分が宝石商です」

「養殖真珠の価格を上げる。今の倍……天然の半額より安くしないよう、宝石商側に調整させる。同時に天然真珠の価値を上げる。業界全体が養殖に傾くほど天然物には希少価値というブランド力が付く。養殖対天然ではなく、量産型対希少品だ」

「なるほど。しかし宝石商はともかく、天然物の漁師は生活が成り立ちませんな」

「ある程度はグラナドで買い取り数を保証するが、むしろこの機会に養殖産業への転職を勧めていく。薄利多売状態にだけはならないようしっかりコントロールすれば、漁師の実入りはむしろ良くなるんだ。漁師会の一角でも落とせば、自分は乗り遅れまいと乗っかってくるさ」

「天然物のブランド価値というものは、どうやって付けましょうか」

「何か企画を立ててみる。たとえば人生で特別な日……冠婚葬祭では天然物をつけるのが礼儀(マナー)だとか」

「ゆえに成人の祝いには親から子に贈りましょう――」

「死者の墓に入れたら天使のヒイキが得られる、なんてどうだ? 消耗するし」

「ほほっ、良いかも知れませんな。ではこのウォルフガング、どこかの国にそのような伝承がないか、探してみましょう」

「できればディルツにとって馴染みのなく、しかし神秘的な印象のある遠方がいいな……」

「シャイナ中央大陸国の果てにある、ヒイズル島国は、古代より良質な真珠の産地です。なにか真珠にまつわる伝承があるかもしれませんね」

「よろしく頼む。俺はイプスの市場に掛け合う書類を作る」


 ――執事、という職業を、わたしはこのグラナド城に来る前まで、長く誤解していた。家政婦(メイド)や侍女の男性版、くらい、ざっくりした認識でいたのだ。

 いや、教科書知識としては知っていた。

 メイドは建物の維持管理、侍女は主人家族の心身の世話係、執事は、主の相棒(パートナー)。しかしシャデラン家には古なじみの老侍女しかおらず、ゆえに区別する必要がなくて、『ちょっとしたお手伝いさん』という感じだったの。たぶん市民の資産家も同じだと思う。料理人はおらず、メイドが料理をしているだろう。


 ……侍従が少ないといわれるグラナド城……だけど、それはあくまで、規模のわりにという話で……。

 やっぱり、ちゃんとしているんだなあ。


「しかし旦那様、一度は現地に旦那様自ら赴かれる必要があるかと存じますよ」

「……ああ、そうだな。……今年中には……まあ、考えておく」


 ウォルフガングは微笑み、一礼した。

 これで終わりらしい。彼らの話し合いは非常にスムーズで、本当にあっという間に終わってしまった。キュロス様が伸びをし、くつろぐと、ウォルフガングもまたいつもの飄々とした雰囲気へと戻った。いや、いつもの彼がわたしのために、「ただの老紳士」を気取ってくれているんだわ。


「お待たせ致しました、マリー様、ずたぼろ様。僕はこれで、失礼します」


 去り際、彼はハンカチーフを取り出すと、わたしの膝で寝ている子猫にふわりとかけた。布一枚のぬくもりで、さらに深い眠りに沈む猫。喉元に指を入れ、こちょこちょしてみた。ふふっ、やわらかーい。


「その猫の名前、ずたぼろで決定したのか?」


 キュロス様が、少し困ったような顔で言った。わたしも眉を垂らして苦笑い。


「ええ、それで覚えちゃったみたいなんです。セドリックとツェリがずっとそう呼んでいたものだから」

「また覚え直すまで、他の候補で呼び続けてみてはどうだ?」

「わたしもそう思って、『ニャコ』と呼んでみたんだけど全然反応してくれないの。もうトイレを躾けるのに仕方なくって」

「……ネーミングのセンスでは、そんなに変わらない気はする」


 キュロス様は呆れたように苦笑いした。組んだ足に肘を置き、頬杖をついて、わたしを見上げる。


「マリー、子どもの名は二人で一緒に考えような」


 ――それは、彼の冗談だったのだろうけど。わたしはアッと声を上げた。


「ああそう、そうでした、子どもです。キュロス様、わたしはそれでお伺いしたいことがあって参りました」

「うん? なんだ」

「わたしたちの子どもって、いつ産まれるのでしょうか?」


 その瞬間、キュロス様は頬杖から頭を落とし、椅子から床へと墜落した。一回ごろんと転がって、椅子にしがみつき身を起こす。


「で、出来てたのかっ? マリー、おめでたいのかっ!?」

「え? ああいえ、そういう感じはないです」


 ふるふる首を振って答えると、キュロス様はもう一度、絨毯の上に転がった。


「では、今すぐ欲しいとか――」

「違います」


 これもキッパリ言い切ると、キュロス様は机におでこを付けて脱力した。


「なんなんだ……一体、何の話だ?」


 そう言いながら、わたしのそばにやってきて、ソファに並んで座ってくれる。ちゃんと話を聞くぞ、という意思表示だ。わたしも一度、頭の中で整理して、きちんと話し始めた。


「……この城に来てから、一ヶ月以上、わたしはキュロス様のお顔を見れませんでした。お仕事がとても忙しくて、ずっと留守にされていましたよね」

「ああ、婚約式の前後にまとまった休みを取ろうとして……今となっては、悪手だったかと思う。一番不安なときに、そばにいなくて悪かったな」

「ううんそれは、ミオがいてくれましたし」


 と、首を振る。……正直、かえって萎縮したかもしれないとは黙っておいた。


「それで、今はずっと王都にいて下さっているけど……いつまでもっていうわけにはいかないですよね?」

「……うん」


 彼は誤魔化さず、素直に頷いた。わたしはそれで安心する。さらに話を続けた。


「お仕事だけでなく、上級貴族としても、王都外の王侯貴族の領へ赴く機会は必ずありますよね。わたしたちの婚約式にたくさんの方が来てくださったのと同じく、わたしたちも、その時には伺わなくてはいけない――そうですよね?」

「その通りだ。……君は社交界に出たこともないから、不慣れなうちは、俺やリュー・リューだけで対応しようと思っていた」


 そう、そのために、わたしはこの四ヶ月間、貴族の振る舞いを習ってきた。不慣れなことに変わりはないけど、人前に出せないということはない……はず、たぶん。一応確認してみると、キュロス様は「もう大丈夫だ」と太鼓判を押して下さった。


「ディルツ国内なら、どこへ行くにも二週間程度だ。何ヶ月も城を空ける遠出はめったにない。もし今度、そのくらい……マリーに寂しい思いをさせる時には、君を一緒に連れて行く」

「ありがとうございます。そうしてください」


 わたしが言うと、彼は嬉しそうな顔をする。わたしの頬にそっと触れ、顎や耳を指で擦り、くすぐるように撫でていく。まるで猫をあやすようにして、わたしを甘やかした。わたしも猫のように、彼の指に額を宛てた。

 その姿勢のまま、わたしはもう一度、彼に尋ねた。


「わたし、いつ子どもを産めばいいのでしょうか?」



 キュロス様は、その質問には答えなかった。

 照れているのではないことは、その表情から知れた。

 口を噤み、今まで見たことがないような、難しい顔をしたのだ。


「……グラナド商会のほうは、ある程度の損益を覚悟すればどうにかはなる。しかし、『グラナド公爵令息』としては、避けて通れないイベントがある」

「はい。承知しております」

「結婚式のあと、近隣国を夫婦で回るんだ。婚約式の来賓にお礼と、来られなかった方への顔見せのために。ついでに商売の方も片付けていけば一石二鳥だ。旅の道は快適だぞ、陸路は鉄道機関車が使えるし、航海も安全で早くなった。ただ――それでも数ヶ月」

「……途中で産気づくわけにはいきませんね」

「だから、結婚式も早く済ませたかった。翌月か、早ければ翌週にでもとずいぶん前から申請しておいた。……結婚式は、婚約式のような準備はいらない。教会で証文を交わすだけ――なのに、その証文が届かない」


 わたしは息を呑んだ。



 結婚式の証文……すなわち、わたしたちの結婚を決定づける証明書だ。

 市民同士なら、新郎側の家長が役場へ行って、ちょっとした手数料とともに夫婦の名前を書くだけで済む。しかし、グラナド公爵家は元王弟の血族、国内に大きな領地と影響力を持つ。その子息ともなれば、国と神の承認が必要だった。

 とはいえ、それは形だけ。ただ紙がちょっと立派になっただけで、市民とやることは変わらない。ずっと前に教会と王家に申請したので、あとは返信を待つだけ――だったのに。

 その書状が、なんど催促しても来ないのだと。


「そ、それってわたしが、グラナド家の一員となるのを、認められなかったということですか!?」


 わたしが声をひっくり返して叫ぶと、キュロス様は黙り込んだ。彼も把握していないのだろう。苦悶というより腑に落ちないといった表情で、眉を顰めていた。


「いや、シャデラン男爵の不祥事は、こちらで対処したから問題ない。もともとは名家なのだし、君に『キュロス伯爵』の妻として不足は無いはずなんだ。不可という返事も来てないしな。

 ……わからない。

 ……俺たちの結婚式がいつになるのか。なぜ承認されないのか」


 そんな……。


 わたしはよっぽど酷い顔をしていたのだろう、キュロス様は表情を崩し、わざと軽薄に笑って見せた。大丈夫大丈夫と背中を叩いて、わたしを元気づけようとする。


「教会か王家に、何かあって、ちょうどバタバタしているのかもな。ちょうど教会へ、ミオを使いに出したところだ、あいつなら何か掴んでくれるだろう」

「はい……」

「王宮にも探りを入れてみる。王はのんびり屋だし第一王子はカタブツだが、仕事はちゃんとやる男だ。急かせば動いてくれるだろう」


 まあ、キュロス様ったら、この国で一番えらいひとたちを、のんびり屋にカタブツですって。思わず吹き出したわたしに、調子のいい口調で続けるキュロス様。


「王族にはルイフォンしか会ったことないよな? 三男のあいつもアレだが、他もなかなかクセモノだぞ。長兄は顔面が石で出来てるし、次兄は声が大きい。どっちもルイフォンには全く似てなくて、面白いぞ」

「まあ、ふふふ。三人並ぶと壮観ね」

「あと妹もいるんだが、これがまた癇癪持ちで手が掛かるんだ。……まあ、前に会ったのは八年も前だから、今はもう少し落ち着いたレディになっているだろうが」

「ふふっ――ねえ、キュロス様」


 わたしは、キュロス様の手を取った。


「大丈夫です、わたし。あなたと結婚できる日を何年だって待ちます」

「……ああ……俺もだ。子どもを焦っているということもない」

「ゆっくり……ゆっくり参りましょう。今ここにある幸せな日々を、大切に……」

「うん……」


 頬を摺り合わせ、穏やかなキスを交わす。

 唇や指、声からも彼の愛を感じられるし、不安など無い。

 本当は、書類一枚の婚姻証明なんて、どうでも良かった。


 この穏やかな日々が続けば良い。それだけで、わたしたちは幸せだったの。

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