ミオの真実 中編
公爵邸での生活は、穏やかな日々でした。
愛人の連れ子だと、口さがないことを噂する者は少なからずおりましたが、リュー・リュー様が護ってくださいました。公爵様にも約束通り、学習の機会を与えていただきました。
それでも、私が彼らの子――この屋敷の家人だと、思ったことはありません。自分がまだ幼いので、優しい大人達に保護されていると考えていました。成長すれば当然、独り立ちするのだと。
ですから決して、拗ねてヒネたわけではなかったのです。しかし……。
「ミオ! またあんたは勝手に外に出て!」
野良猫のように首根っこを掴まれて、リュー・リュー様にぶら下げられる私。
「六つの女の子ひとりで、危ないって言ってるでしょ? 本当、毎度毎度どうやって家出してるの。屋敷は鉄門で囲まれてるし、門番だっているのに」
首を傾げるリュー・リュー様と公爵様。
別に、種明かしをすれば簡単なことですよ。ただ園庭のあちこちにこっそり穴を掘って地下道を作ったり、石壁を破壊してから木板で隠していたり、門よりも高い木の枝をつたって飛び越えたり、裏門の鍵を模造(コピー)したり……六歳児相応の知恵と体力で、まあ、普通に。
そうして度々、公爵邸を飛び出しては、仕事を探していました。
子どもの浅知恵? いいえ、当時の王都は今よりも経済が不安定で、子どもの人権も低く、児童労働がはびこっていました。私は読み書きと計算が出来たので、市場でそれなりに仕事があるはずです。
そう思って、毎回市場へ歩いて行くので、グラナド家の使者に見つけられてしまうのですが。
連れ戻されるたび、私はこっぴどく叱られました。リュー・リュー様はいつも、本気で激怒していました。時には涙まで流しながら――
「心配かけないでおくれよ……」
――その腕に、幼い男の子を抱いたままで。
私は、リュー・リュー様にも、公爵様にも、可愛がっていただいていました。まるで実の子どものように大切に育てられてきました。
しかし……だからこそ。このままでいいはずがないと思っていました。
二人の実子は、この男の子。二歳児にして凜々しい面差しは公爵様にそっくり。肌や髪、そして鮮やかな緑の瞳は、リュー・リュー様と同じ色。
焦げ茶色の髪に青い目の私は、お二人に似たものが何一つありません。当たり前ですけどもね。
私はこの家の子じゃない――男の子が生まれるまで、考えてもいなかったことです。だけど目の前にあるその子を見るたび、真実を突きつけられた気分になりました。
……あの赤ん坊を見ていると、気分が悪い。怖くて、いたたまれなくなる。一日でも早くこの館を出て行きたい。追い出される前に、「やっぱり血の繋がった子がいちばんね」という言葉を聞くよりも前に――ここから逃げ出したい。
毎日毎日、それだけを考えていました。
リュー・リュー様は、家出の理由を問い詰めはしませんでした。何かを察していたのでしょう。言葉で説き伏せることはできないのだとも。
いつかは必ず、家出を完遂する予兆は十分にありました。来年にでも。
ところが、そんなある日。
「ミオ、あんたにお願いがあるの。どうか仕事を頼まれてくれないか?」
リュー・リュー様はそう言って、両手を顔の前で合わせ、私に頭を下げてきました。なんだろう、お使いだろうか? とりあえず頷いた私――まだ六歳の女児の手に、彼女が押しつけてきたのは、彼女の実の息子。
両手足を垂らした直立姿勢のまま、熟睡している二歳児でした。
「……えっ?」
私は疑問符を浮かべて、男児とその母親を交互に見つめました。そんな私に、リュー・リュー様はお茶目なウインクをひとつ。
「キュロスの子守り。あんたが面倒を見てちょうだい」
「……えっ?」
「ほらあたし、まだ王国語はこんな粗雑な話し方しかできないでしょ? 息子にうつっちゃまずいじゃん? ミオはあたしより言葉が綺麗だもん、キュロスにいっぱい話しかけてあげてよ」
「え……え? えっ!?」
「ていうかぶっちゃけ子育て飽きた! やっと乳離れしたと思ったら、ずーっと後追いしてくるし暴れん坊だしでもうしんどいっ! おねがーいミオちゃん、子守りお手伝いしてぇー?」
「ええっ……」
言ってることは分かったけれど状況が理解できず、ひたすら困惑する私――次の瞬間、私の手の中で、男児がけたたましい鳴き声を上げました。
赤ちゃんの泣き声、なんて可愛いものではないですね。けだものです。あれは猛獣の咆哮というのです。両手両足をどたばたさせて、私の腕から飛び出すと、母親に飛びついていきました。どうやら結構な人見知りの子のようです。
そんな我が子と、私とを、くっつけるようにして腕に抱き、リュー・リュー様は笑いました。
「最初のうちは、三人でくっついて暮らしましょう。キュロスがミオを、自分の家族だって理解したら、あんたに甘えていくようになるからさ」
「ええっ……えー……」
けだもの――もとい二歳児は、母親のそばならば他人とくっつくのがイヤというわけではないようで。私の顔をじっと見つめて、不思議そうな顔をしていました。
小さな唇が、言葉を紡ぎました。
「おねえちゃん?」
「……姉じゃないわ。ただあなたより先に、あなたの母と暮らしていただけ……」
……それは、ただの真実でしかありませんでしたが、二歳児に理解できるはずがありません。私は嘆息し、とりあえず彼と向かい合いました。出来るだけ丁寧な、王国の言葉を使って。
「ミオと申します。坊っちゃん、よろしくお願いします」
男児は、緑の目を大きく見開いていました。やはり公爵様によく似ていました。将来は偉丈夫になるであろう、精悍な顔つきをしています。黒々とした長い睫毛をしばたたせ、私を見つめて……二歳児の『坊っちゃん』は呟きました。
「うんちでた」
私は悲鳴を上げて逃げ出しました。
それから、私の生活は一変しました。
坊っちゃんは、人見知りだったのは初日だけ。すぐに私を母親代理と認識したらしく、リュー・リュー様が不在の時は、私のあとを追ってくるようになりました。
あれは一般的な二歳児の特徴なのでしょうか? トイレ、風呂、水汲みに立ち上がるたび、足下をちょろちょろちょろちょろと子犬のようにまとわりついてくるのです。
しつこいのは後追いだけではありません。言葉遊びもエンドレスでした。
「みおみおみお、ごじゅって知ってる? ごじゅだよごじゅ」
「ごじゅ? 分かりません、何のことでしょう」
「ごじゅだよ」
「ええ、だから存じ上げません。ゴジュってなんでしょうか」
「ごじゅだよ」
「……ゴジュですね、はい。ゴジュが、どうかしましたか?」
「ごじゅって知ってる? ごじゅだよごじゅ」
足首を掴んで窓の向こうまでぶっとばそうかと思いました。
懐いているわりに、こちらの言うことはちっとも聞きません。
「坊っちゃん、水遊びが楽しいのはよくわかります。しかしもう日が暮れますので、冷える前に水から上がって、湯で体を温めましょう」
「いや」
「……それでお腹を壊したら、しんどいのは坊っちゃんです。また一晩中、おなかがいたいと夜泣きされたらたまりません」
「やだ」
「坊っちゃん」
「ミオ」
「はい」
「うんちでた」
「もうそこに住んでろ」
坊っちゃんは、控えめにいって手の掛かる子どもでした。リュー・リュー様が「もうしんどい、手伝って」と言ったのは、本音だったのかもしれません。
……ええ。もう、とても正直に申し上げますが……うんざりでした。
鬱陶しくて面倒で、とにかく手も目も離せない幼子。私は毎日ヘトヘトで、家出をすることなど出来なくなってしまいました。
そんな生活も、気が付けば二年が過ぎ……。
四歳になった坊っちゃんは……相変わらず、お馬鹿な幼児でした。それでも言葉使いはさすがにしっかりしたもので。
「ミオ、ここにミミズがいっぱいいるぞ。おれは捕まえてミオにあげるんだぞ」
「いけません。土の肥料になりますから、そっとしときましょう」
「でもミオ、食べるだろうミミズ」
「私のことモグラかなにかに見えてます?」
と、少々頓珍漢ではありましたが、窘(たしな)めればすぐに改める、物わかりの良い子になりました。体も同年代より大きく、精悍な顔立ちはより凜々しくなり、大人の男に近づいていました。
私は彼の子守と言うより、少し年上の遊び友達という感じでしたね。八歳になった私にとって、四歳男児の遊びは楽しい物ではありませんでしたが、とりあえず手は掛からなくなりました。
それに人見知りもなくなったようでした。その日お喋りした使用人や出入りの商人との会話を、逐一私に報告してくれるのです。
「今日、ローラさまに、頭を撫でてもらったぞ。今度おかしを焼くから、好きな味を教えてって言われたぞ」
私は眉を顰(ひそ)めました。ローラ様とは公爵様の前妻――もとい、正妻。政略結婚で、お互い無関心の夫婦だと公爵様がおっしゃっていた方です。
確かにそれは嘘ではなく、何年も口を利いていなかったそうです。しかし側妻を娶るとなると別だったのでしょうか。ローラ夫人は、リュー・リュー様を激しく憎悪し罵倒していました。
――蛮族の売女が、身の程を知れ! 今すぐここから出ていけ! ――
そのヒステリーから逃げるため、母子は離れの建物で暮らしていたのですが……。
「ローラさま、やさしい。いいひとだぞ」
嬉しそうに話す坊っちゃん。ローラ夫人は、側妻のことは憎んでも、子どもに罪は無いと考えていたのだろうか? 引っかかりつつも、私はそう納得することにしました。
それに、坊っちゃんなら……案外ふつうに、可愛いと思われたのかも、と。
……え? 何ですか。
別に私が坊っちゃんをそう思っていたという話ではありませんよ。違いますので、あしからず。
……ええ、本当に違います。私は坊っちゃんを、弟のように思ったことなどありません。私は彼の姉ではないから。
ただ――
「ミオ、とんぼだったら欲しい?」
この穏やかでやんちゃで、優しい旦那様なら、公爵家の良き跡継ぎとなるだろうなと、確信しておりました。
虫を追いかける背中は、いつの間にか逞しくなっていて……。
「……潮時かな」
私は小さく呟きました。
――グラナド公爵の家督は、いずれこの男児、キュロス・グラナドに継がせる――
そう、公爵様がおっしゃったのは翌日のことでした。
私はその場におりませんでした。自室で、夜に家を出るための準備をしていましたので。
しかし家出計画は頓挫しました。リュー・リュー様が私の部屋に駆け込んできたので。
「キュロスが引きつけを起こした! ミオ、助けて!!」
ケガや発熱をしたわけでもなく、突然息苦しそうにしたと思ったらひっくり返ったのだと。公爵家には住み込みの医者もいるのに、なぜ私の所に……と問うと、坊っちゃんと同じ年の頃、私もこうして痙攣したことがあったそうで。
「アルフレッドが、跡取りをキュロスにって発表した直後だったの。きっとそのショックで……あたしもビックリしたんだよ。てっきり姉婿――ローラ様の子が指名されると思ってたもん」
なるほど、それは確かにショッキングでしたが、それだけじゃないと私は思いました。坊っちゃんはまだ四歳、公爵家の重責など分かるものだろうか。自身が妾腹の子で、正妻に恨まれるべき立場だとかも、正しく理解していなかったのに。
詳しくは分かりませんでしたが、とりあえず心因性のもので間違いはなかったようです。私とリュー・リュー様とで挟むように添い寝して、慰め続けると、やがて坊っちゃんは穏やかに眠りました。
眠る息子の横で、リュー・リュー様も欠伸をしていました。
「……ねえミオ。……あんたさ、将来、やりたいこととかあるの」
問われて、私は首を振りました。
「……そう。だったら――あのさ。――キュロスの、お嫁さんになる気はない?」
ギョッとして、私は言葉を無くしました。時々、子どものイタズラのような冗談を言うリュー・リュー様だから、またふざけているのかと思いました。
しかし、その緑の瞳は、真剣でした。
「公爵は、並みの貴族爵位とは一線を画す。元々は王弟の辺境伯で、戦争の立役者だ。大きな領土を持つし、個人の家のようにうっかり潰しちまっても自己責任っていう地位じゃない。
アルフレッドが、キュロスを指名したのは、妾(めかけ)可愛さなんかじゃないの。姉婿たちが軒並みろくでなしだったから。まだ幼いキュロスなら矯正できるっていう算段なのさ。
……あたしは……それがこの子を幸福にするか、不幸にするのか分からない。ただ現在(いま)健やかに育ってる子の可能性を、心配だからって、先回りで潰したくはないんだ。
やれるだけやらせてやりたい――信じてあげたい。この子の才能と強さを――」
その言葉は、リュー・リュー様らしい、力強さがありました。十五の若さで私を育てると決めたのと同じ、強く逞しい女傑の眼差しで――そのまま、ぼろっと大粒の涙を零しました。
「……だけどミオ、あたし……やっぱり心配だよう。息子が可愛いんだもの。可哀想に、あたしに似ちゃってさ。きっとこの肌や目の色は、いつかこの子を傷つける。その時、あたしの慰めは救いになるの? 母親が子を愛してるなんて当たり前だわ。そうでない誰かが、この子の頬に触れてる必要がある。――キュロス、あなたが好きよ、って。母親(あたし)以外の誰かがさ――」
「…………。私と坊っちゃんとでは、身分が違いすぎるのでは」
「どうにかする。位の高い貴族に話を付けて、あんたを一時的に養女として預ける。そこで名字をもらって、数年ばかり奉公すれば、公爵令息と並ぶことは出来る」
リュー・リュー様の提案は、彼女らしからぬものでもあり、実に彼女らしいものでもありました。子ども達のために、出来るだけのことを全力でやる――それがどれだけ泥臭くても。
強い、母親の矜恃(きょうじ)でした。
「もちろん、最終的にはあんた達の気持ち次第だよ。年頃になって、他に好きな相手が出来れば婚約破棄をすればいい。だけど、その日のために準備がいるの。
ミオ、今日明日に返事をしろとは言わない。だけど、考えておいてちょうだい。あんた自身のためにも、これから先、どう生きていくのかを」
私は、何も言うことが出来ませんでした。
ただ私の隣で眠る――暢気(のんき)に口を開けて、鼻提灯を作っている四歳児を見下ろして……なんともいえない気持ちでおりました。
それ以上、リュー・リュー様は何も話しませんでした。
坊っちゃんを挟んで三人で寝転がり、他愛も無い話をしていました。特に、大笑いするほど楽しかったわけではないのですが……漠然と、この暮らしが続くと良いな、と感じておりました。
八歳の女児が、四歳の幼児に何を想うことはございません。それでも十年後、二十年後は――もしかしたら――。
その時。
ふと、鼻腔を何か、甘い香りがくすぐりました。
窓から吹き込む風に乗って、かすかに香ばしい、お菓子のにおいです。
「……お菓子……誰か、クッキーを焼いてる?」
私が呟くと、リュー・リュー様が顔を上げました。
幼児の眠気が感染(うつ)ったのでしょう、緑の目を蕩かせて、ぼんやりしています。
「ああ……あれだ。……ローラ様だよ。……ローラ様が厨房で……」
「公爵夫人が、お菓子を?」
「なんか、独身の頃から趣味なんだってさ。べつに珍しくもないでしょ……」
確かに、手作りを楽しむ貴族は少なくありません。貴族社会はおもてなしの文化で、花やテーブルワークも主人自ら手がけますし、手料理を振る舞う夫人もいるでしょう。材料費(コスト)がかかるお菓子作りは、金持ちや貴族令嬢らしい趣味です。
しかし……。
家督を妾腹の子に奪われた夜――
――よりによって、今……?
坊っちゃんと並んで、寝息を立て始めたリュー・リュー様。
私は口元に指を押し当て、深い思考に沈んでいました。
この時、リュー・リュー様からの提案は、私の頭から吹っ飛んでおりました。
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