夜明けの鐘の鳴る頃に 前編

 角を二つ曲がり、突き当たりにある大きな扉を開く。するとすぐに、メインホールに降りられる階段がある。そこを抜ければじきに中庭だ。

 しかし、広いホールの隅……正門へと繋がる扉の前に、見覚えのある人影(シルエット)があった。

 ――グラナド城の門番、トマスだ。

 彼はわたしに気が付くと、扉の前で両手を広げた。


「ここは通しませんよ!」

「トマス?」


 もともと通るつもりじゃなかったけど……とりあえずトコトコと歩み寄ってみる。


「ぐ、グラナド城門番の名にかけて、ここは死守します。旦那様とミオ様は、マリー様の選択に任せろ、邪魔をするなって言ったけどっ……やっぱりダメです、僕が通しません!」

「トマス、あの……ごめんなさい、わたし」

「どうして、出て行っちゃうんですか? あんな家に帰ってどうするんですか。どう考えたってグラナド城のほうが心地良いし、旦那様よりイイ男なんてあの村に一人もいないじゃないですか」


 ええと、わたしもう帰ったりなんて……と言いかけるたび遮られる。どうしたものかと困っていると、とうとうトマスは、その目に涙を溜め始めた。鳶色の目からぽろぽろっと涙を零し、うーうー呻く。


「奥様が毎日正門まで来て、おはようございますと声をかけて下さるのは、僕の何よりの癒やしでした。いなくなっちゃ、嫌です。旦那様が気に入らないなら、僕が……僕が旦那様と喧嘩します! あ、あのひとでかいからたぶん勝てないけど、絶対勝てないけど、でも――何とか一発ぶん殴って、奥様に謝らせます。だから……」


 ぎゅっと目をつぶったまま、叫ぶトマス。わたしは彼の、ぶるぶる震える手を取った。トマスは呟く。


「さようならなんて言わないで……ただいま、って言ってくださいよぉ……」

「うん。……ただいま」


 へっ? とトマスは泣き顔を上げた。あららっ、鼻水が顎まで……いけない、今わたしもハンカチを持っていないわ。服の裾で拭いてあげようとしたけど、トマスに慌てて拒否された。


「お、奥様? 今なんて……」


 わたしは笑って、ことの経緯を簡単に説明した。婚約破棄は取り消し、わたしはまた、この城で暮らしていくと。

 目をまん丸にして、それを聞いた彼。ホォーと息を吐いたとたん、床に座り込んだ。


「ああ……良かった。……眠い」

「心配かけてごめんなさい。もう大丈夫だから、ゆっくり休んで……」


 と、言い終わるより早く、プクウウと風船のように鼻提灯が……。あらあらあら。

 参ったな。もう夏だから、凍死はしないと思うけど……でも放っておくわけには……。


 わたしはとりあえず彼をそのままに、そばにあった、小さな扉を出た。あんまり行ったことはないけど、たしかここは使用人達の部屋へ繋がるはず。

 だれか起きていないかな……と、いくらも探さないうちに、灯りの漏れる部屋があった。ノックをして入ってみる。すると意外なひとがいた。


「リュー・リュー婦人。どうしてこんなところに」


 んー? と振り向いた公爵夫人は、褐色の肌を赤く染め、とろんとした目つき。粗末な椅子にほとんど全身を預け、テーブルには酒瓶がずらり。

 質素な部屋だった。キュロス様が使う仮眠室よりも一回り小さくて、家具もベッドとテーブルしかない。


「どーしてって、ここがあたしの部屋だもん。色々仕事するのに、いちいち公爵邸まで寝に帰ってられないし、居るわよ」


 そう言って、ゴブレットにワインをなみなみ注ぐ。溢れて零れそうになったので、わたしは慌てて取り上げた。


「婦人、飲み過ぎじゃないですか? もう夜更け、いや夜明けですし、お休みしましょう?」

「眠れるわけないでしょー、可愛い息子が大失恋して、ずたぼろになったってのに!」


 奪い返そうともがく彼女。わたしはテーブルの隅に水差しを発見し、ワインの代わりに手渡した。リュー・リュー夫人はお水をグビグビっと飲み干すと、テーブルに突っ伏し、深い溜め息。


「はぁーあ……悲しいよあたしは……悲しい。可哀想に、あんなにあの子のこと好きで、好きで、大事にしてたのに。息子は哀れだよ……」


 どうやら婦人は、わたしが誰か分かっていないようだった。


「可哀想な息子……。本当は政略結婚なんて、反吐が出るほど嫌だったろうに。……側妻上がりのあたしやミオが、居場所を無くしちゃいけないから、公爵のあとを継ぐっていったんだ。

 ……勉強だって、そんなに出来の良い子じゃなかった。それでも必死で頑張って、商売をあれだけ大きくした。頑張り屋なんだよ、息子はさあ」

「……はい。……そうですね……」


 わたしは頷いた。婦人はまた水をあおり、ひっくと大きなシャックリをした。


「それで社交界やら見合いやらしてもさ、可哀想に、あたしに似ちゃって、蛮族だの魔性だの。頭カラッポの小娘どもにひそひそ嫌なこと言われてさ。すっかり女性不信になっちゃって――それでも、結婚したくないって言わなかった。

 ……可哀想に。あたしはそれを分かってて……もういいよって、言ってやらなかった。もしかしたら本当に、あの子を愛してくれるひとがいるんじゃないかって……思ってさー……」


 黒髪を掻きむしり、呻く婦人。ひっく、ひっくと何度もしゃくり上げながら、


「あたし、嬉しかったんだよう。やっとあの子が、本気で恋をしたって聞いてさあ。……しかも相手は、あたしらの国のこと好きだって。この目を見ても怖がらないんだって。もう子供みたいに喜んでてさ……。あたし嬉しかったんだよう」

「……そうだったんですね……」

「そう、それがあんた、また良い子でさぁー。……だのに、可哀想に振られてしまった。なんでよマリーさん。あんた息子の妻になるために、一所懸命頑張ってたんじゃないの。ねえ。夜遅くまで勉強して練習して、あたしに教えを乞うてきたじゃないの。なんのために? なんのためだったのよ――」


 わたしは婦人を抱きしめた。気丈で、気高く、小柄なイプサンドロスの女性は、わたしの胸で嗚咽を漏らす。


「ごめんなさい。わたしがフラフラしていたばっかりに、お義母(かあ)様のことを傷つけてしまって」

「マリーさん。マリーさん……行かないで……」

「行きません。グラナド家の嫁として、立派につとめ上げさせていただきます」


 何度か同じ言葉を繰り返す。そうしているうちに、リュー・リュー婦人は静かになっていった。テーブルに突っ伏し、くうくうと寝息を立て始める。ありゃりゃっ、これは困った。要介護者が増えてしまったわっ。


 またまた困り果てて、わたしは部屋を出た。見回しても他に灯りは見えない。

 仕方なく、サロンのほうへ戻る。こうなったら一度、ミオの所まで行って……と思ったら、そこに新たな人影があった。

 こんな時間でも、乱れのない執事服。背筋をピンと伸ばした老紳士だ。


「ウォルフガング……それに、ツェリも」


 ウォルフの腕には、銀髪の女児が抱かれていた。祖父の服を握りしめ、熟睡している。その頬が僅かに濡れているのに気が付いて、わたしはツェリの背中を撫でた。


「さっきまで起きていたのですけどね。さすがに、六歳児の限界を超えてしまったようです」

「もしかして、わたしを探して?」


 ウォルフガングは頷いた。


「婚約を解消したことは、先にお伺いしておりました。その時もツェリは泣き喚きましたが、一応納得して、眠りに就いたのです。

 しかし夜鳥が鳴くたび、コウモリが窓を横切るたび、マリーの声がした、マリーが帰って来たのだわと起き出して……」


 赤く腫れた瞼を、指で撫でる。本当に力尽きているのだろう。もう微動だにしなかった。


「先ほど……今度こそマリーの声がすると、ここへ駆け込んで来ました。そこで寝ているトマス君に、八つ当たりの蹴りを入れていたのを引き剥がし、慰めておりました。眠りに落ちたのは、本当に、つい先ほどのことでございます」

「……ごめんなさい。……ウォルフも。わたし、たくさんのひとに心配とご迷惑をかけたわ……」


 ウォルフは、ただ優しく微笑んでいた。


 ツェリを部屋へ寝かせに行ってから、トマス、リュー・リュー夫人の介抱をしてくれるという。小柄な夫人はともかく、トマスを運ぶのは大変だろう、わたしも手伝うと提言したが、また笑う。


「お任せ下さい。このウォルフガング・シュトロハイム、若き日には騎士団の切り込み隊長として、戦場に立っておりました。こう見えてけっこう、力自慢でございます」

「まあ、本当?」

「ええ本当に。敵兵には『白銀の悪魔』なんて、不名誉な二つ名で呼ばれたものです」


 柔らかな眉を垂らし、魅力的なシワでいっぱいにして、くすくす笑う老紳士。思わず、釣られて笑ってしまう。


「じゃあ、お言葉に甘えちゃおうかな」

「ええ、甘えちゃって下さい。いつでも、これからも」


 ウォルフガングは、わたしに言い聞かせるようにゆっくりと、言葉を紡いだ。


「貴族といえど、人間(ひと)は人間(ひと)。ひとりでは生きていけません。……決して完璧で、無敵になどなれない。自分と自分が好きなひとには甘くなり、時に過ちを犯し、後悔して泣き潰れる……それが、普通の人間です」

「……はい」

「そんな主を支えるために、使用人(ぼく)たちがいます。そしてぼくたちもまた、あなたがたに支えられている。……旦那様は、完璧ではないが、大きなおひとです。その大きさでこの城(しろ)を守り、また住人達に愛され、包まれている。

 ぼくはこれを、『家族』と呼ぶのだと思っております」


 ウォルフは、ツェリの小さな身体を抱きしめて、頬ずりをした。孫娘が愛おしくてたまらない、老紳士はそう目で語る。

 ツェリを抱きしめたまま、最後に深い、一礼をくれた。


「――グラナド城へようこそ、マリー様。ご用命があれば何なりと、お申し付け下さいませ」


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