夜明けの鐘が鳴る頃に 後編

 中庭に出ると、すぐにフワッと甘い匂いがした。園庭の花のにおい……ではない、ミルクや砂糖、フルーツを煮込んだような、食欲をそそる匂いだ。

 なんだろう、こんな時間に? 首を傾げると同時に、わたしのお腹がクウと鳴った。そういえば夜ご飯を食べ損ねていたわ。おなかすいたな……。

 思わず、フラフラとにおいのするほうへ歩み寄る……。


「あ! 奥様!」


 茂みの向こうから、美味しそうなクリームパン……もとい、クリーム色の髪をした、ふくよかな料理人(コック)が顔を出す。その手には、見たこともない大きさのパイが抱えられていた。


「ああ……においの出所はコレね? トッポ」


 頷くトッポ。そして彼は、わたしの前にパイを差し出した。


「良かった! トッポ、ちょうどアップルパイを焼いておりました。どうぞ、お召し上がりください!」

「ええっ?」


 こんな所で、いきなり食べろと言われても。それに、ちょうど焼いていたってどういうこと?

 グラナド城の食堂は館の中にある。たしかに庭園にも、テラスでのお茶やバーベキュー、窯焼きが出来るような設備がある。でもそれはあくまでイベント用、特別なビュッフェパーティーを行うときにしか使わないって……。


 わたしの困惑などよそに、トッポはパイを切り分けて、小皿によそい、フォークを添える。


「ホラ見てみて奥様、自信作。バターたっぷりリンゴは七個、生クリームをどっさりトッピングした、甘―いスイーツでございます。これを食べたら最後、もうよそのアップルパイは食べられない」

「……トッポ」

「どうぞ食べて、食べてください。美味しいですよ。

 ――トッポは料理人だから、こんなことでしか、奥様を止めることが出来ないの……」


 少しずつ、俯いていくトッポ。彼の姿は、初めて出会った日より、二回りくらい痩せたようだった。婚約式の料理のために、一所懸命、試行錯誤をしていたからだ。

 わたしはトッポの手から、アップルパイを受け取った。フォークを刺して、一口……。


「おいしいっ。美味しいわ!」


 トッポは顔を上げた。


「奥様……」

「本当に美味しい。困ったわ、これじゃあもう、よそのアップルパイは食べられない。……わたしはもう、トッポの作ったものでなきゃダメね……」


 とっても甘い、少しだけ塩っぱいアップルパイ。わたしは一切れいただいて、残りはトッポに勧めた。号泣しながら食べるトッポ。


「おいしい、おいしい。トッポのアップルパイは世界一!」

「いっぱい食べてね。グラナド城の料理長には、精を付けてもらわなくちゃ。婚約式まであと何日もないんだもの」


 ほんのひとときだけど、お菓子とお茶を楽しんで、わたしはまた歩き出す。


 と――夜風に乗って、今度こそふんわりと、優しい花の香りがした。月の明かりに照らされて、闇に浮かんだ薔薇のオベリスク。

 思わず、わたしは引き寄せられた。硝子の靴で土を踏んで、薔薇の花に近づいていく。


 優美な薔薇の足下に、男が屈み込んでいた。大柄というほどではないけど、がっちりとした、職人の体型。雑草を毟っていたらしい、黙々と作業をしている背中が頼もしい。


「……ヨハン」


 わたしが呼びかけても、彼は振り向きはしなかった。作業をしながら、ぼそりと言った。


「――儂は止めんよ」


 一瞬、悲しい気持ちになる。だけどすぐに気が付いた。ヨハンの声はぶっきらぼうだけど、とてもあったかくて優しいことに。


「結婚だけが女の幸せじゃあるまい。ろくでもない男に縛られるくらいなら、一人ででも、自分を咲かせられる場所を探した方が良い。……旦那様はろくでなしではないが……それも、お前さんの選択じゃて」


 彼はそのままの姿勢で、肩越しに、何か革袋を差し出した。片手に乗るほどの小さな物だが、受け取ってみるとずっしり重い。


「持って行きなさい」


 覗いてみる……まず目に付いたのは、小さくて黒褐色の、細長い粒だった。これは……花の種?

 そしてその下に、大量の金貨を見つけてギョッとする。


「ヨ、ヨハン、これはっ」

「コスモス。もとは異国の高地に咲く野草だが、可憐な花からは想像できんほど逞しく、たいていの所でしっかり根を張る。大きく育てばひとの背丈を遙かに超える……強い花だ」


 わたしが驚いたのは、花の種にではなかったけど……ヨハンが伝える言葉を黙って聞く。


「――儂は、惚れた女を幸福にできんかった。身を引きたいという、お前さんの気持ちも分かるし、手放した旦那様の想いも分かる。生き方も愛し方も一種類(ひとつ)じゃあるまい。別の場所で、別の形でこそ咲く花もあるだろう。

 ……使い道のない金だ。それもまた、役に立つひとの救いになればいい……」


 ……ヨハン……。胸が締め付けられる。父と同じ年頃だろうか、長年の労働で、ちょっと湾曲した大きな背中――わたしはそこへ、額を押しつけた。


「ありがとう。……だけど花は、料理や薬で、役に立っているものもあるわ。……切り取られて花瓶に飾られ、見目麗しいと評される花に憧れたこともあった。でも今は……それを育てる土や肥料も、素敵だって思うの」


「……マリー様」

「それから、腕利きの庭師にも。また庭仕事を教えてもらえる? この花を育ててみたいわ。グラナド城の園庭、わたしの部屋から見えるところで」


 ほほっ――と、ヨハンは笑った。


「……旦那様が、儂をスカウトしたときとおんなじ事を言うんだなあ」


 革袋をヨハンに返す。後日、今度は種だけを取り分けて、ラッピングして贈ってくれるらしい。そしてこれを代わりに、と、薔薇を一本、手折ってくれた。無骨でぶっきらぼうな彼だけど、こんなロマンチックなところがとても好きだ。ヨハンが恋人とどうなってしまったのかは知らないけど、彼と一緒に居る間、そのひとは幸福だったんじゃないかと思う。


 薔薇の香りを楽しみながら、わたしは浴室へと入っていった。



 ミオの話していたとおり、お風呂はもう準備万端。湯番のチュニカは、髪をまとめ上げ、元気溌剌でわたしのことを出迎えた。

 わたしの服を脱がせ、あちこちにある小さな痣を見るなり、ニヤーーっと笑う。


「うふふ。私は、こうなるって思ってましたよう」


 わたしの髪をワシャワシャ洗いながら、にこにこ。


「……どうして分かっていたの?」

「だってーえ、私は毎日マリー様を見てますもの。恋する乙女の顔、恋する乙女の身体。そして、好きな人に愛されている肌と、髪とおっぱいとくびれとおしりと脚! もう相思相愛に違いないですぅ」


 ……ほ、ほんとかしら? 思わず疑いの目を向けたわたしに、チュニカは肩をすくめ、わかってないなーって顔をした。


「女は恋をすると、綺麗になるんです。それはどんな薬湯やオイルより効果的。相思相愛になれば倍率ドンです。……湯番にしてマリー様の美容隊長チュニカ、旦那様の愛の前に敗北。ちょっぴりジェラシーしちゃいますねえ」

「あはは、ジェラシーなんて。まずわたしが自信を持てるようになったのは、チュニカのおかげよ?」


 一度、チュニカの手がピクッと停止した。ワシャワシャを再開しながら、ふーん、と気の無いような返事をする。


「チュニカがいなかったら、わたし、いつまでもシャデラン家のずたぼろ娘のままだった。……チュニカが真剣に仕事をしていたから、わたしは自分は綺麗になった事を、信じようって思えたの」

「……んはー、て、照れるんですけど……」

「それにね。ここで働く女性達はみんな格好よくて魅力的だわ。……わたしは今まで、二人の女しか知らなかったの。綺麗なアナスタジアと、ずたぼろのわたしと――だけど、みんなと出会ってから……『格好いい』って見た目のことだけじゃない、真摯な仕事ぶりとか生き方が充実しているのも『格好いい』って思えてきた。

 わたしも、チュニカみたいに格好いい女性になりたいな……」


 チュニカの手が止まる。振り向くと、彼女は目を逸らし、ぷるぷる震えていた。


「き、キャラじゃないですぅ……」


 あら、耳まで真っ赤。初めて見る意外な一面に、もうちょっと虐めたくなっちゃう。とりあえずくすぐってみようかな、と手を伸ばしたが避けられた。

 逆にたっぷりのお湯でザパーンとぶっかけられる。わたしも泡をフーッと吹きつけてやり返す。しばらくキャッキャと水遊びしてから、自分たちの年齢を思い出して静かになる。


 湯船に浸かって、クールダウン。


「まあこれからなにか悩みがあれば、いつでもご相談くださいまし。オトナの男女のアレコレは、このチュニカが聞きますですのでー」

「……チュニカは……経験豊富なのね」


 わたしの言葉に、彼女はフッと鼻息を吐いた。


「まっ、普通にねー、ミオ様よりはねー? 旦那様も朴念仁なとこあるし、お互い初恋じゃワカンナイことだらけですれ違いもあるでしょー」

「そう……でしょうね、きっと」

「そゆとき、身近に相談したり愚痴ったりできるオネーサンは必要不可欠ですよ。モヤモヤするけど我慢すべきなのかな、これって普通なのかな、私だけかな……って不安になること、あるじゃないですか。例えば、初夜だって…………どうでした?」

「ど、どうって!?」


 ぼっと紅潮し、後ずさりする。胡乱な目つきの湯番に、恐る恐る……


「あの……わたしにとって、アナスタジアは――」

「あっそういうことじゃなくて、もっと具体的に現場の話」

「え! え。……あの……。や……優しくして頂きました…………」

「や、そのレベルでもなくて」

「ええっ!?」


 慌てて逃げ出すわたしの腕を掴み、決して放さないチュニカ。これって相談じゃなくて尋問じゃないかしら!


 湯の中でジタバタしているうちに、のぼせてしまいそうになり、わたしはとうとう観念して……と、いうのが半分。半分は……本音の好奇心で……わたしは、チュニカに耳打ちした。


「……悩みとか不安とか、そういうんじゃないんだけど……ちょ、ちょっと、驚いたことが、あって」

「ほむほむ? なんぞなんぞ」

「あの……。……お、男の人って…………あんな所にも毛が生えるのね……」


 チュニカは、真顔になってスウーと大きく息を吸うと、立ち上がり、突き当たりの壁まで移動。背を向けてしゃがみ込み、床を叩いてヒイヒイ笑った。


 ……言わなきゃ良かった! もーっ!!



 汗を流し、身体を磨いて……アップルパイで少しお腹を満たしたせいか、ずいぶん眠たくなってきた。薔薇の花に鼻を埋めながら、回廊を進む。

 チチチ……と、小鳥の声がした。振り向くと、遠くの空がかすかに明るい。

 夜明け――生まれたての朝日が、グラナド城に差しこんでくる。手元はまだ真っ暗だけど、たしかに早朝のにおいがした。透き通った空気をいっぱいに吸い込んで、わたしは数秒間、目を閉じ、開く。

 また少し、空は明るくなっている。


 瞬きするたび、変わっていく景色。

 ……その中で、わたしも毎日、生きていく。



 そんな殊勝なことを考えながら歩いていたら、目の前に、木とレンガ造りの館があった。あっいけない、わたしったらうっかり、館のほうへ来てしまったんだわ。いつもお風呂上がりにはこっちへ戻ってきていたから。


 今日は、石のお城のほう。……キュロス様の部屋、彼がまだ眠るベッドへ帰るのだ。一人で照れ笑いしながら、踵を返そうとして――


 後ろから首を、強い力で締め上げられた。


「――動くな!」


 言われるまでもなく、動けなかった。首の締めつけと、そして目の前に突きつけられた、ナイフの鈍い輝きに……。


「――グラナド城の人間だな? 侍女か?」


 ……ちがう……けど、声が出せない。

 ……な、何? 誰? わざわざ城塞に忍び込む強盗はおるまい。だけどこの声……なんだか、どこかで聞いたことがあるような――


「暴れなければ傷つけはしない。ただ、聞きたいことが――」


 その時、遠くで大きな音がした。

 ――カラーン。カラーン、カラーン……。

 教会の鐘だ。夜明けを報せる鐘は、それほどけたたましい大音量ではない。しかし後ろの人間の声は掻き消された。暴漢の声はか細くて、まるで女の子みたいにハイトーンだったから。


 暴漢は、鐘の音に邪魔されることなど気にしなかった。わたしの耳元に口を寄せ、囁く。


「――マリー・シャデランの部屋はどこだ?」

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