可愛い人かもしれません

 少しだけ、眠っていたのかもしれない。


 乱れた髪は、まだわずかに汗で湿っていた。全身が甘い痺れでひどく怠(だる)い。

 重い瞼をやっと開くと、目の前に、キュロス様の顔があった。深く眠っているらしい。目はしっかりと閉ざされ、碧の宝石を隠していた。


 起こしちゃおうかな……そんな悪戯心が湧く。

 とりあえず頬でもつねってみようかと、腕を上げようとしたがどうにも重い――と思ったら、わたしの肩に、キュロス様の腕が乗っていた。さらに頭の下にも彼の腕。

 わたしったら、キュロス様に包まれて眠っていたのね。

 頭を屈める。それだけで、鼻先がキュロス様の胸に埋まる。やはりまだ、湿った肌に唇を寄せて、浮き出た鎖骨に少しだけ……前歯を立てて、舌でなぞった。


 それで、もう起き上がろうとした。彼の腕をくぐり、シーツから抜け出そうとしてつんのめる。驚いて振り向くと、わたしの後ろ髪をキュロス様がしっかり握っていた。


「痛っ……」


 わたしの呟きで、キュロス様はすぐに手を放した。起きたのかと思ったけど、瞼は閉じたまま。眠ったまま、彼の手が空中を掻く。一晩中……つい先ほどまでわたしを抱いていたのに、彼はわたしを探していた。

 わたしはその手を握った。五指の狭間にそれぞれ指を通して、ぎゅっ、ぎゅっと握る。それで彼は大きく息をつき、また深い眠りに落ちていった。


「ふふっ……」


 思わず、笑い声が出る。空いた手で、彼の頭をヨシヨシ撫でた。前髪を梳(けず)り、剥き出しになった顔の、よく出来た意匠を眺める。

 キュロス様は、とても美しい男性だった。彫りが深く、パーツの一つ一つが凜々しい。だけどところどころ、女性的なくらいに繊細だ。

 褐色の肌は滑らかで、あまり肉のない頬は、触れてみると意外なくらい柔らかい。鼻筋を爪でツウと辿ってみると、彼はくすぐったそうに瞼を震わせた。陰を落とすほど長い睫毛がゆらゆら揺れる。


「んン……」


 鼻にかかる甘い声。


 綺麗なひと。素敵なひと。愛おしいひと。

 わたしの手を握ったまま、全然起きる気配がない。

 ……可愛いひと……。


 ――コツコツ。扉がノックされた。聞こえなければそれでいいくらいの、小さな音と声がする。


「必要なものはございませんか」


 ミオの声だ。

 わたしは少し迷ってから、シーツを身体に纏い、ミオを招いた。

 彼女は静かに入室した。レモンの浮いた水差しとグラス、さらにわたしの部屋着があった。

 ありがたい。わたしはベッドを出ようとしたけど、キュロス様の手が離れない。眠っているのが信じられないほど、しっかりがっしり、わたしの手を掴んでいた。

 ぷるぷる、ぶんぶん、振ってみる。離れない。

 ……どうしよう。困り果てていると、ミオが嘆息した。


「折りましょうか?」

「そこまでしなくても大丈夫よっ!? ほら取れた!」


 そうですか、とミオはすぐに引き下がってくれた。ほっと息をつく。


 ミオはいつも通りの無表情、どうということもない所作で、服と水を渡してくれた。


「今、何時ごろ?」

「夜明け前といったところです。もう少し眠られたほうがよろしいかと」

「……汗を流したいわ。水浴びできないかしら」

「いつでも入浴できるよう、チュニカに湯の支度をさせております」


 わたしは苦笑した。ミオにはずっと前から、こうなることが分かっていたのね。

 わたしがシーツから出て、服を着ている間、ミオは背中を向けていた。侍女である彼女は、わたしの全裸など何度も見ているはずだけど、やっぱりこういう……事後というのは、別物なのかしら……。


「いかがでしたか?」


 不意に問われて、ギョッとする。頭から湯気を出しながら、わたしは答えた。


「……や、優しくして頂きました……」

「……。……そういったことではなく」

「え? あ!」


 声にならない悲鳴を上げ、シーツに頭を潜らせて、そこにキュロス様の肌があるのに動転し、また慌てて脱出する。ミオは背を向けたままだった。


「失礼、私の聞き方が悪ぅございました。現在の心境と、今後のことをお伺いしたかったのです」

「は、はい。あの……ごめんなさいミオ、大騒ぎしたけど、またこの城に置いてもらってもいい……?」

「お二人の間でそうお決めになられたならば、私が申し上げることは何もございません」


 それだけ言って、彼女は扉へ向かう。わたしを風呂へ案内してくれるつもりだろう。あとを追おうとすると、キュロス様の呻き声に後ろ髪を引かれた。

 マリー、と呟き、手で空中を探している。


「これではマリー様が動けませんね。少々お待ちください」


 ミオは部屋をキョロキョロ見回すと、クローゼットから何やら見覚えのある、細長いクッションを取り出した。ベッドでもがいているキュロス様に投げ渡す。キュロス様は目を閉じたまま、しっかりとそれをキャッチして、すかさず胸元へ抱き入れた。

 すぐに、安らかな寝息が聞こえる。

 一連の動きをのんびり眺めて、わたしは、ミオってすごいなと思っていた。


「ミオは、やっぱり魔法使いみたい。なんでもお見通しなのね」


 部屋を出て、廊下を進みながらそう言う。彼女はやはりいつもの通り、「仕事ですから」とだけ返す。口調は素っ気ないけど、歩く速度がいつもよりもずっと遅い。わたしの身体を気遣ってくれているのだ。全身に重怠さと、甘い鈍痛がある。それはすべて、キュロス様が愛してくださった場所だ。

 わたしの耳元で、マリー、マリーとわたしを呼ぶ、優しくて、だけどちっとも余裕のない彼の声――思い出して震える。わたしは呟いた。


「……こんなこと、ミオに言ったら怒るかもしれないけど……。キュロス様って、もしかして……可愛らしい方なのかも……」


 瞬間、ばっ! とすごい勢いでミオが振り向き、空色の目を剥いてバチバチ瞬きした。


「今ですかっ!?」


 えっ、なに? わたしそんな驚くようなことを言ったかしら? きょとんとするわたしにミオは咳払いをひとつして、ナンデモナイですと背を向けた。

 その背中に、わたしは独り言のように語る。


「……本当のことを言うとね。わたしの中で、姉の存在は、絶対で……お姉ちゃんはわたしよりも綺麗、姉の方が、伯爵夫人にふさわしいというのは、変わらなかったの。彼にどれだけ愛されても、今でも……」


 ミオは返事をしなかった。構わず続ける。


「きっと、これからもずっと。……でも……少しだけ、考え方が変わったの。

 ――わたし、キュロス様が好き。この城の暮らしも失いたくない……だから、わたしが、姉を超えようって。

 ……わたし、頑張る。勉強して、練習して、もっと綺麗になりたい。強く、優しくなりたい。

 自分のことを、好きになろうと思うの。姉のことが大好きだから……自分が好きになれるような、わたしになりたいって。……そう思うようになったのよ」

「それ、マリー様はもう、出来てるんじゃないですか」


 ミオのクールなお返事。わたしは、笑ってしまった。


「――うん。実はね、もうけっこう出来ちゃってるの」


 ふふっ、と笑い声がする。自分の声が漏れたかと思ったけど、背を向けたまま、ミオが笑ったらしかった。わたしは足を速めて、ミオの隣に並んだ。

 女二人、並んで歩く。途中でふと思いつき、わたしは提案した。


「ミオ、お風呂にはわたしひとりで行くわ。それよりわたしが戻るまで、キュロス様の近くにいてもらえない? もしお目覚めになって、誰もいなければ不安になるでしょうから」

「ああ、そうですね。畏まりました。城内はまだ暗いので、足下にはお気を付けて」


 彼女はすぐに理解して、ランタンを渡してくれる。


 広い広いグラナド城で、その灯りは小さなものだったけど、それだけでもう何の不安もない。

 わたしは一人、夜の城を歩いて行った。

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