わたしが本当に欲しいもの!(中編)

 闇の向こうに、白亜の城がはっきりと見える。

 揺れる馬車の窓から、わたしはぼんやり、流れ行く景色を眺めていた。


「……本当に、酷いワガママを通してしまったなあ……」


 ため息と一緒に、独り言をぽつり。それが聞こえてしまったらしい、御者台のミオが答える。


「別に、ワガママでもないんじゃないですか。もとより旦那様の片想いですから」


 しれっと、いつもどおりのクールな口調。それでも声の中に、ほんの少しの不機嫌が混じっているのが聞き取れた。


「ミオも、ごめんね……」

「私は仕事ですので、何も」

「ん……でも、ごめんなさい。……ごめんなさい」


 謝るべきは、彼女だけじゃない。

 ガタゴト揺れる馬車、そのわりになかなか小さくならないグラナド城。

 その住人達みんなにも、たいへんな迷惑を掛けた。挨拶もなく出てきてしまったトマス、チュニカ、ヨハン、トッポ、ツェリにウォルフガング……それにリュー・リュー夫人も……あんなにお世話になったのに、不義理をしている。


 ――マリー様、今日の髪型、かっわいい!――


 一瞬の幻聴に耳を塞ぐ。それで少し遠のいたかと思ったが、今度は別の……キュロス様の、掠れた声が染み込んできた。


 ――もう少し強い男になれたら――


「……キュロス様は……何故ご自分を、弱いなんて言ったのかしら……」


 ガタゴト揺れる馬車の上でも、ミオは絶対にわたしの呟きを聞き逃さない。


「実際、弱いからでしょ。ヘタレですよ」

「へ、へたれ?」

「がっかりですね。なんですあれ、近いうちに必ず迎えに行くーって、本当にそう思うなら今すぐ攫えって話ですよ。旦那様があんな臆病者だとは思っておりませんでした」


 この侍女が城主にも辛辣なのはいつものことだが、それにしても今日は辛口だ。彼女が言うならば、きっとその通りなのだと思うけど……。


 ……臆病者……勇気。勇気とは何の勇気だろう……。


「キュロス様は何を怖れておられたの……?」


 侍女は答えた。


「あなたを傷つけること。あの方はあなたの幸福な未来よりも、今の涙を止めるだけのことを選んだのです」

「……幸福な未来より、今の涙……?」

「目先の投資金をケチって、将来の市場発展を諦めたわけですね。商売人としてあってはならないことです。まったく、旦那様らしくない」


 馬車はゆっくりと進んでいる。

 穏やかな振動は、どこか懐かしい心地よさがあった。わたしは目を閉じた。


 ――キュロス様は、わかっていたのね。わたしが、嘘をついていること。


 ずらりと並べた綺麗事はぜんぶ嘘……ただ姉への嫉妬という、ドス黒い欲を隠したかっただけ。彼に嫌われたくなかっただけ……でも、それも見抜いていたんだ。

 わかっていて救ってくれたのね。わたしが壊れてしまいそうだったから。


 それはキュロス様の弱さなのだろうか。涙を流すほど自分を傷つけながら、それでもわたしを護ろうとしてくれた。それは彼が弱いひとだからなのか。


 その思考を、わたしは自身できっぱりと否定した。

 いいえ、違うわ。弱いのはわたし。ひとを傷つけることよりも、自分が傷つくことから逃げ出した、このわたしが誰よりも弱い。


 ああやっぱり退いたのは正解だ。こんなわたしを妻にしたら、あのひとの足手まといになるだけ……。


 その瞬間、脳裏にキュロス様の顔が浮かんだ。苦悶の表情で呟いている。


――自分の無力さに、これほど憤ったことはない――


 わたしは胸を押さえた。

 逃げるように窓の外を見る。

 そこに、グラナド城の白壁があった。つい今朝まで楽しく過ごしていた城……もう二度と足を踏み入れることはない場所だ。きっともうすぐ見えなくなってしまうのだろう。本当に居心地が良くて大好きだった、あの場所――。

 胸と背中が凍えて痛い。その痛みを抱えたまま、わたしは窓に張り付いていた。


 ――これは何の痛み? わたしは何を怖れているの……?

 あれはもともと、わたしのものなんかじゃないのに。

 そう、初めからみんな、姉のものだったのよ。

 シャデラン家にいたころ、わたしは姉に妬みなんて覚えなかった。姉は遠い憧れでしかなく、自分も真似をしたいとも思わなかった。ドレスも宝石も、紳士達の熱烈な求愛も、両親の抱擁も望まなかった。姉と競うなんて思いも寄らなかったわ。わたしが欲しいものや好きなものなんて何もなかった――


 ……あれ? 不思議だな。

 疑問に思う。

 だったらわたしどうして、あんなにも、ダンスの練習をしたのだろう?

 あのときにはもう、わたしは姉の生存を確信していた。挨拶の言葉やお辞儀、婚約式の準備も……どうせ姉が生還したら、すぐ譲るものと理解していたなら、どうしてあんな、無駄な努力を……。


「……あれっ?」


 おかしい。

 なにかがおかしい。わたし……言っていることもやっていることも、何もかもおかしいわ。

 自分に嘘をついている。

 わたしの半生……無理、無駄、だから願うこともなかった十八年間。

 たった一度も手にしたことがないもの、絶対に手に入らないに決まっているものを、欲しいなんて思わない。

 期待しなければ、欲しいとも思わない。失うことも惜しくない――はずなのに。


「あれ……?」


 流れる景色、大木が一瞬視界を塞いだ。白亜のグラナド城が見えなくなると、わたしは悲鳴を上げ、窓を開いた。身を乗り出して見回せば、遠くに城壁が見える。ほうと胸を撫で下ろし、腰を下ろした。

 ――その瞬間、理解した。

 自分の、本当の気持ちに。

 わたしが目を背けたかった、自分の本性……それは、彼に嫌われたくないなんて、小綺麗な物じゃなかった。姉への嫉妬なんて、控えめで可愛いものじゃなかった。わたしが本当に怖かったもの、生まれて初めて知った痛みに耐えかね逃げ出したかったのは。わたしが本当に欲しかったものとは――。


「ぅわっ!……うわああっ」


 急速に全身が紅潮する。体温が上がり、どくどくと脈打つ音が耳元で聞こえる。

 嘘でしょ、わたしったらまさか、こんな。こんな大それたことを望んでいたの!?

 それは酷くおこがましくて恥ずかしくて、あまりにも酷い、酷すぎる。めまいがして、逃げ出したくなるのを、わたしは犬みたいに身震いして振り払う。

 これは、逃げてはいけないこと!

 立ち上がり、御者台に繋がる扉を叩いた。


「ミオ! ミオっ!」

「はい?」

「お願い待って、止まって! 馬車を止めてっ!」

「畏まりました」


 いつもの通りのクールな返事で、ミオは手綱を操作した。すると二頭の馬は激しくいななき、停止どころか急加速。さっきまでとは比べものにならない速度と振動で、わたしは慌てて壁に手を張り身体を支えた。ガッタンガッタン揺れる車内で叫ぶ。


「みみみミオっ、わたし止めてって言ったわ、か、畏まったのではなかったのっ?」

「大丈夫です、この進行方向のままで。さっきからずっと、グラナド城周辺をぐるぐる回っていただけですし」

「ええっ!?」

「しかしちょうど、城門の真逆の位置です。急いで距離を詰めるのに全速力で参りましょう、少々揺れます、舌を噛まないように」

「え、あっあの、別にそんな、大急ぎする必要はないような――ひゃああっ! おう、おう、おうっ痛っ、痛い!」


 ガタガタゴトゴトどったんばったん、全身をあちこちにぶつけながら、わたしは必死で悲鳴をこらえる。

 そのおかげか、あっという間の時間で、わたしたちはグラナド城へと帰還した。

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