わたしが本当に欲しいもの!(前編)
およそ三ヶ月前、グラナド城にやってきたとき、荷物らしいものはほとんどなかった。
小さな鞄ひとつに、わずかな路銀。着ていた服と着替えは、言っても返してもらえなかった。
「申し訳ございません。もう着る機会はないと思い処分をしてしまいました。代わりにこちらの服をお持ち帰り下さい」
そう渡されたのは、煌びやかなドレスの数々。わたしは全力で拒否をして、今着ているものだけ頂くことになった。
この城で仕立ててもらったドレスと、わたしの足に合わせて作られた、硝子の靴。
髪も、肌も……ここで磨いてもらった、そのままの姿で……わたしは、キュロス様に頭を下げた。
「お世話になりました」
「……ああ」
彼は、そう呟き、顔を伏せた。
頭を下げたまま、わたしは謝罪を続けた。
「申し訳ございませんでした。ここでの滞在費と、婚約破棄の賠償は、生涯をかけて必ず――」
「そんなものはいい」
わたしの言葉を遮り、彼は言う。
「もともと、君の意思を聞かずに結んだ婚約だ。俺は強制しない、いつでも破棄していいと言った。その通り、君は何も気にすることはない」
「……ですが、もう婚約式も直前で……来賓もいらっしゃるのに……」
「意外とよくあることだよ。フォローは任せてくれたら良い」
「…………畏まりました。ありがとう、ございます。よろしくお願いします」
わたしは姿勢を戻した。それでも、伏せた顔は上げられないままだった。
ミオが前に出る。
「御者は私が務めさせて頂きます。馬車へ参りましょう、マリー様」
わたしは頷き、歩き始めた。
ミオのあとを付いて、廊下をいく。あちこちにガス灯、それにミオのランタンがあるのにやけに暗い。わたしは転んでしまわないよう、壁づたいにゆっくり進んだ。
石壁の凹凸、ひとつひとつを指で慈しむようにして。
角の手前で、後ろのキュロス様が呟いた。
「もう深夜だぞ。出発は、明日になってからでいいんじゃないか?」
わたしは振り向かなかった。
「すみません……少しでも早いほうがよいかと……」
「旅立つ前に、睡眠はしっかり取った方がいい。でないと、馬車(クルマ)酔いする」
「馬車酔い?」
なんとなく、笑ってしまいそうになった。わたしは口元を押さえ、言葉を返す。
「大丈夫です。今まで酔ったことはないし、馬車の中で眠るので」
「でも……御者も、馬だって眠い」
「旦那様。私も馬も、夜の業務に慣れております。その文言では足枷にはなりませんよ」
ミオが言う。キュロス様は押し黙って、それでもまだ、後ろを付いてきていた。
角を曲がると、まっすぐに伸びる長い廊下。わたしは何も無いところで躓いてしまった。すぐに壁に手をつき、事なきを得る。
「――俺は――いずれ必ず、結婚をしなくてはいけない」
またキュロス様が呟く。独り言かと思うほど小さな声で。
「グラナド家存続のためではなく、繋がっている商家や、使用人達の生活がある。俺の代だけで切るわけにはいかない。相続は養子を取るという手もあるが、法律上、いずれにせよ正妻を据える必要があるんだ」
これは、どういう意味でおっしゃっているのだろう。
わたしが出て行ったあと、すぐ他に女性を迎えるが恨むなよと? いや、心配しないで出て行っていいぞという気遣いか。それとも、まさか、わたしに出て行かれたら困るという……?
発言の意図を確認し、返答をしなくては――と、振り向くと、彼は頭を抱えていた。
「すまない、今のは無しだ」
わたしは追及しないことにした。そしてまた躓いた。
グラナド城は大きい。長い廊下を進むうちに、キュロス様は二度三度、わたしに語る。
「グラナド商会は、海外貿易を営んでいる。しかし現在は、あっちの商人が王都に持ち込んでくることが多くなり、俺が直接海外にいって買い付ける用はほとんどない」
「……そうですか」
「それに先日、そこに職員を常駐させた。教育と業務の引き継ぎも済んだ。君が来てしばらくは、外出続きだったのがそれだ。――だから、もうこれからは、決して、寂しい思いはさせない」
「…………」
「……逆に、俺がいて心地が悪いというなら月に何度か……いや週の半分でも、羽を伸ばせる日をとるし……」
わたしはその度、転びそうになる。それでも進んだ。
やがて、大きな扉に突き当たる。
そこから先は、巨大な下り階段になっていた。
吹き抜けで、一階のメインフロアが見下ろせる。初めてこの城に来て、キュロス様と対面した場所だ。緋色の絨毯が敷かれた階段を、一段ずつゆっくり降りていく。
「……マリー」
また声が聞こえる。
「君の家族のことは、俺に任せてくれ」
わたしはハッと息を呑んだ。振り返って、
「それは、アナスタジアを妻に迎えて下さるということですか?」
「えっ!?」
彼は素っ頓狂な声を上げた。それでわたしは、彼の意図に気が付いた。
「すみません、男爵家のことですね。はい。どうぞ、わたしはいかなる罰もお受けいたします」
「ああいやそれは、悪いようにはしない。心配しなくていいぞと言いたかったんだ」
「……よろしくお願いします」
一礼をして、再び歩き出す。
「あ――あと、ここにいる間に買いそろえたものは、すべて君の物だ。売れば一財産……誰にも頼らず、ひとりで生きていけるぶんにはなるだろう」
「そんなとんでもない、頂けませんわ」
「いいから受け取ってくれ。物はすべてこの城に置いておくから――」
ん? とわたしが疑問符を浮かべると、下段でミオが咳払いした。キュロス様は頭を抱えた。
「これも無し。ああそうだ、君が物に釣られる女なら、なにも苦労はないんだ……」
これも、追及してはいけないやつかしら。
わたしはまた進み始めた。
歩きながら、背後に向かって話しかける。
「申し訳ございません。怒っておられますよね」
「いいや」
「では、呆れているでしょう」
彼は否定する。首を振ることもせず、視線を合わせたままで。
「いいや。何を言えば君を引き止めることが出来るのか……そればかり、ずっと考えている」
「……そ……うですか……」
それにしても、足下が変な感じだ。やけに歩きにくい。なんだか靴がゆるい……いやきついような? 今までそんなこと無かったのにおかしいな。
「自分の無力さに、こんなに憤ったことはない」
ああだめ、転んでしまいそう。
そう思った瞬間、膝がカクンと折れた。
「あっ!」
「マリー様!」
前のめりに身体が崩れ――ミオの真上に落ちそうになって――空中で止まる。
キュロス様が、後ろからわたしの腕を捕まえていた。
キュロス・グラナド伯爵は背が高い。上段から引き上げられると、長身のわたしでも全身が浮いた。
宙を掻いた足から、靴が――
「あ――ああ……」
まるで硝子で出来ているような、美しい靴が脱げ落ち、階段の下まで転がっていく。わたしはそれをどうしようもなくただ眺めて――腕に痛みを感じて振り向いた。
そこで初めて、キュロス様と目が合った。
彼は転がる靴など見向きもしていなかった。握りつぶすのではないかと思うほど強く捕まえた、わたしの腕さえも。
ただじっと、わたしの瞳だけを見つめていた。
魔性のものと怖れられる、エメラルドグリーンの眼差し。激情に燃える緑の瞳は、鋭く深く、美しい。
……素敵なひと。このひとが姉の夫になるのか。お姉様はいいな、こんな素敵なひとの妻になれるなんて――想像した瞬間、胸の内側にドス黒い渦が沸き立つ。
いけない。ともすれば吐き出してしまいそうな呪詛を、わたしは無理矢理呑み込んだ。
「自分よりも、アナスタジアの幸せ。それが君の望みなのか」
――大丈夫。わたしは、微笑んだ。
「はい。姉を、幸福にしてあげてください」
最後はせめて、とびきり可愛らしい笑顔で。
そう思いながら言ったのに、キュロス様は顔を歪めた。凜々しい眉を垂らし、眉間に深い皺を刻む。
「俺には無理だ」
褐色の肌を上気させて、掠れた声で呟いた。
「……無理だよ。こんなに弱い男が、女性一人を幸福に出来るわけがない」
「えっ……?」
――弱い? キュロス様が?
意味がわからなくて固まる。その時、腕を掴む力が強くなった。抉られるかと思うほど、肉に食い込む指が小刻みに震えている。わたしは思わずそれを見つめて、また視線を戻し、今度こそどきりと心臓を跳ねさせた。
キュロス様の目から、滴が零れていた。
大人の男の、端整な顔立ちが、溢れる涙で水浸しになっている。彼は……泣いていた。
「キュロス……様……」
「どうすればいいのか、本当はわかっているんだ」
顎から涙粒が滴る。拭いもせず、キュロス様はまっすぐわたしを見つめたまま、自分に言い聞かせるように呟く。
「――君の言葉など聞かず、この手を無理矢理引いて抱き上げて、部屋に閉じ込めてしまえばいい。
マリーの言葉は本心じゃない、だから言いなりになってはいけないと……わかっている。わかっているのに――俺は、臆病者だ」
ゆっくりと、指の力が抜けていく。そうして彼は、わたしの腕を手放した。
自由になった手でグイと乱暴に涙を拭い、階段を降り、転がる靴を拾い上げる。
「いつかまた、迎えに行く」
裸の足を手に取って、優しくそれを履かせてくれた。
「近いうちに、俺が勇気を手に入れて、もう少し強い男になれたら……必ず」
それまで待っていて――そう呟いた声はやはり泣き声で。彼の手の大きさや力強さよりも、わたしの胸に深く突き刺さった。
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