生まれてきてもよかったようです

「……まあ、イプス語はマイナーだから、東部と交易してる商人でもなきゃ実用性は無いけどねえ」


 苦笑いして、リュー・リュー夫人はそう言った。

 わたしはホッと息を吐いた。……なぜ安堵したかは分からない。頷いてわたしも笑う。


「そうなんです。本当にただの趣味で、使う機会もぜんぜん無くて。本を遺してくれた祖母はもちろん、勉強の機会を与えてくれた父に感謝しています」

「そうね。個人的には、自分の故郷だからすっごく嬉しいんだけど。上位貴族の嗜みといえば、友好国の半島国、フラリア語でしょうね」


 ……あっ……。


「できればマリーさんも公爵夫人になったら覚えて欲しいけど、まあ無理は言わないわ。会合では通訳を付けるし、文書はキュロスが全部書くってさ」

「……あ、あのっ……」


 全身がこわばる。

 ……どうしよう。いいのかな。……いや、これは言った方がいい。

 夫人の口ぶりだと、これは許される……むしろ必要なことみたい。なによりキュロス様の負担になりたくない。むしろ、きっと助けになるわ。

 わたしはつばを飲み込んで、『自白』した。


「――わたし、出来ます。フラリア語と、東中央大陸のシャイナ語も……。シャイナのほうは読み書きだけですが」

「ホントにっ?」


 リュー・リュー夫人は大きな声を上げた。


「男爵の娘が? 言っちゃなんだけども、学ぶ機会も使う機会もないんじゃないの?」

「いえ……シャデラン領はその二国と国境が近く、多くの移民が小作人として入植しているんです。シャデランは彼らの住居や雇用を管理しなくてはいけません。あと発注とか伝票とか、コミュニケーションを、やはり手紙で」

「マリーさんがやってたの? それって男爵家の経理……いや、もう本業の経営、でしょ」

「……! えっ、と……」


 どうしてこんなことを聞くの? わたしの背中に、冷たい汗が流れる。どうしよう――言ってしまっていいのだろうか。

 嫌われないだろうか。

 この城を、追いだされはしないだろうか。


 ――女が、数を数えるなど生意気だ。学問が出来ることを、決して外のひとに話すな――


 お父様の言葉が浮かぶ。物心ついた頃から刻み込まれた、わたしの世界の常識、父からの、わたしのための教訓。

 家にとってもわたしにとっても、それはとても恥ずかしいことで。

 婚家に知られたら、たちまち嫌われてしまうことだって……。


 エメラルド色の瞳が、わたしをじっと見つめる。


 ……彼女と初めて会ったとき、わたしはすぐに、目をそらした。美しく、自信に溢れる公爵夫人の眼差しは強く、正面から合わせるのが怖かった。

 だけど……改めて思う。彼女は、キュロス様とよく似ている。彼を産み、育てたひとなのだ。上位貴族、『公爵夫人』には話せない。だけど彼女なら――きっと――


 わたしは再び、頷いた。


「……はい。わたしは市井の学校に通い、経営学を中心に学んでいました。その……それがどれくらいのものなのか、よく分かりませんけど。シャデラン領の経理は、五年前からわたしが担当しています」


「……ふぅーん……」


 リュー・リュー夫人は、さっきみたいに明るい歓声など、あげなかった。笑顔すらなく頬杖をつき、わたしの顔を見上げている。

 わたしは慌てて両手を振った。


「あ! で、でもほんの一部です。当主はやっぱり父なので、計画とかは父が。わたしはあくまでお手伝いというか。簡単なものを、分けてもらっていただけなんです」

「……簡単な仕事。いち地方ぶんの経理や、四カ国語の文書作成が」

「は、はい。わたし、手紙を書くのはとても好きなので!」


 それはもう、力強くわたしは断言した。まさしく好きこそものの上手なれ、わたしが外国語を学んだのはそのためだし、それによって覚えていったのだ。生きた言葉のやりとりが、わたしの語学力を引き上げた。

 手紙が好きだった。わたしの唯一といっていい他者との接点。一日中、家事や内職、経理の仕事に追われ、学校では『ずたぼろ娘』と揶揄されて、ほとんど出歩くことができない日々で。

 届く宛名も、送る署名(サイン)も、父や母、姉のアナスタジアばかりで、わたしの名前は無かったけど……

 家族の代筆でも、よそのひとと会話が出来る。

 移ろう季節をともに喜び、ご機嫌いかがと伺いあうことが、とても楽しかったのだ。


「……綺麗な字ね」


 わたしの書いた手紙を読んで、リュー・リュー夫人はそう言った。


「マリーさん、もし良かったらそのリスト、全部あなたにお願いしてもいい? 書くのも早かったし、四カ国以外の言語は無いから」

「はい! ありがとうございます!」


 わたしが即答すると、彼女と、ついでにウォルフガングも吹き出した。どうしてあなたがお礼を言うのかと笑われたけど、わたしとしては何も可笑しなことはない。

 さっそく、次は王国語の宛名を書き始める。

 それにしてもこの便箋紙、それにペンとインクも、滑らかですっごく書きやすい。さすが、伯爵城はこんなところまで高級品。

 ほんの少しのインクだけで、かすれることなくスルスル伸びる。気持ちいいー、もういつまでも書いていたいわ。


 途中、何人か、シャデランでもやりとりしたことがある名前があった。たしかこのおうちも、春先に結婚されたはず、先輩に、夫婦円満の秘訣をご教示頂きたく存じます――と。

 この住所は……まだ雪が残っている所じゃないかしら? ご無理をなさらないでと添えておこう。

 全く知らないひとも多いけど、みなさん、わたしたちの婚約式に来てくださるのね。嬉しい。どんなひとなんだろう……。

 ありがとうございます、お会いできるのが楽しみです。


 何枚も書かないうちに、リュー・リュー夫人から待ったがかかった。


「署名はグラナド公爵じゃなくて、あなたの名前を書いてちょうだい」

「……いいんですか?」


 彼女は笑って、頷いた。


「もちろん。当たり前でしょう? その素敵な言葉は、マリーさんが綴ったものなんだから」



 ――そう、言われて見れば、当たり前のこと。

 そういえばそうですねと呟いて、わたしは頭を振って、頷いた。――ぽつり、と小さな水滴が、どこからか落ちる。

 手元の文字が滲んだ。まさか雨漏り? と見上げたが、それらしいようすはない。だけどどんどん、便箋が水に濡れていく。


「えっ……マリーさん?」

「奥様!?」


 ……なにこれ? おかしい。

 どうして? どうやらわたし、泣いているらしい。

 わけがわからない。どうして? 今まで、シャデラン家でどんなつらい仕事をしていても、醜いと罵られても。母親に、お前が死ねと叩かれても、泣いたことなんてなかったのに。

 ――どうして?


 ぽんっ、と、頭の上に、リューリュー夫人の手が乗った。そのまま撫で撫で、左右に揺れる。


「あのさ、マリーさん。正直あたし、期待してなかったのよ。社交界も出たことが無い地方貴族の娘さんって。まあ、ろくな教養はないんだろうなってさ」

「は……はい」

「それでも背に腹は代えられないというか……しょうがないなって。キュロスの子供さえ生んでくれるなら、足りないところはサポートすれば良いって思ってたわけ」

「はい……ご、ごめんなさい。ありがとうございま――」

「だけども、訂正!」


 ぐりぐりっと激しく、髪をかき回された。目がくらんでいる間に、ギュウッと胸に抱きしめられる。


「ようこそマリーさん! 息子の妻があなたで嬉しいわ!」

「りっ……リュー・リュー夫人っ?」

「あたし、あなたのこと好きになっちゃった。……至らぬ義理母(はは)ですけど、どうぞよろしくね」


 リュー・リュー夫人は、わたしよりもずっと小柄な女性だ。わたしは背中を丸めて、彼女の小さな腕の中にやっと頭を埋めていた。

 腰を痛めそうで、お世辞にも心地良い状態ではない。


 それでも――なにか、落ち着く。


「ぅ……うあっ――あ……」

「お? どうしたどうした、何泣いてるの」

「……わ、分かんない……けど――う。あ。あ。あっ……」

「分かんないのか。あはは、じゃあいいよ、もう泣いちゃえ。どんどん泣いちゃえ」


 目から水滴が止まらない。

 拭い取るべき手を彼女の背に回し、しがみつく。


 そしてわたしは大きな声で、赤ん坊みたいにぎゃあぎゃあ泣いた。

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