常識……ではないのですか?

「マリーさん。お久しぶりね!」


 グラナド公爵夫人にして、キュロス様の母親である、イプサンドロスの美女。リュー・リュー夫人はわたしを見上げ、ニッコリ明るく笑ってくれた。


「だけどあなたの名前は覚えてたわよ。我が子の婚約者の名を忘れるものですか。あたしがうろ覚えだったのは、後ろの――ええと、たしか――セバスチャン!」

「ウォルフガング・シュトロハイムと申します」

「そうそう、ウォルフ。あははごめんね。ほら、王国の人名ってイプサンドロスのとはずいぶん勝手が違うでしょ、覚えにくくてさ」


 そういう間違え方じゃなかった気がするけど……。でも、ウォルフガングが『セバスチャン』っぽいのは分かるので、わたしは何も言わなかった。


「二人ともどうしたの? こんな夜に、調べ物?」

「はい。急ぐ理由は無いのですが、わたしの、壊れてしまった本を直したくて……」

「ふぅん? ……っと、立ち話もナンだわね。どうぞ入って」


 手招きされて、わたしとウォルフガングは扉をくぐった。


 図書室には、リュー・リュー夫人によりすでに燭台が置かれていた。それでも夜の地下だから、全体を明るくまでは出来ない。

 机の一部と、その周辺の本棚が、ぼんやり照らし出されていた。それでも、わたしは歓声を上げた。


「うわぁ……すごい!」


 そこは、想像よりもずっと大きなものだった。確かに扉は地下にあったはずなのに、天井がものすごく高く、おそらくは五階建てを吹き抜けにしたほど。壁がそのまま書架になっている。らせん状の階段は、華奢な手すりがあるだけハシゴよりマシという細さ。一階の燭台だけでは、上の方が暗くて見えない。

 それに、すごく広い。やはり照らし切れていないので分からないけど、たぶん円塔まるごとが図書館なのではないだろうか。

 想像だけでめまいがしそう。本当に立派な図書館だった。

 館の方にも書架のある憩いの部屋があったけど、その何十倍もの蔵書。それでいて、テーブルと椅子は酷く簡素だった。

 もう本当に、ここは図書館……本の保管場所なんだわ。


「すごい。わあ、これは図鑑? こっちの棚は全部小説。えっ、王国美術館の図録ですって。これは画集、わぁ、わあ……」


 目的をすっかり忘れて騒ぐわたしに、リュー・リュー夫人はケラケラ笑った。


「すごいでしょ。ここの蔵書数は、王国イチといっても過言じゃ無いわよ。ちょっとマニアックなのが多いけどね」

「ここって二百年前、国境に城塞として建てられたんですよね? どうしてこんなに……」

「だからこそよ。『情報は兵器』――王国図書館が襲撃される前に、当時最強の城塞にありったけ持ち込んで隠したの。それに、戦争は百五十年も続いたのよ? その間グラナド家子孫代々と、王国の騎士や雑兵までが生活してたんだ。下世話な艶本まで何でもアリ」

「す、少しだけ、中を見てみても良いですか?」

「もちろんどうぞ。軍事機密は国に返してるし、ほとんどはただの教養や娯楽本だもの」

「……夢のようだわ」


 わたしはため息をついた。


 本当にすごい。わたしは震える手で燭台を握り、静かに、実は幼児のようにはしゃいだ気持ちで、書架を巡った。

 色つきの挿絵がたくさん入った図鑑や、外国の小説までがこんなに……信じられない。

 はじめは遠慮して、そっと抱えて立ち読みしていたけど、じきに我慢できなくなって、テーブルに山ほど運んで置いた。一番上から読み始める。東中央大陸の伝統楽器について――

 クックッと笑い声が聞こえた。


「マリーさん、本が好きなんだ? あたしには分かんないけど、楽しそうで何よりだわ」

「は、はい……。そう言えば、リュー・リュー様は、なぜここに?」


 尋ねると、彼女は肩をすくめて見せた。テーブルの上に山積みにした、何かの紙束を指で弾いて、


「もちろん調べ物。あたし、人名だけじゃなく王国語全般、まだ使いこなせていないのよ。話すのは問題ないんだけど、手紙を書くのに綴(スペル)が不安でさ」

「手紙……ですか」


 見ると確かに、紙束は便箋と封筒、人名と住所の並んだリスト。開かれた書籍は、王国語の国語辞典らしかった。


「誰かに代筆を頼めないのですか?」


 言いながら、後ろにたたずむウォルフガングを振り返る。従順な執事は首を振った。


「平時ならば承りますが、いまリュー・リュー様が書かれているのは婚約式参列者へのお礼の手紙。こういったものは、当家の近親者が直筆でなくてはなりませぬ」

「ほんとなら新郎新婦が分担してやるんだけどねー。キュロスのやつ、外に出っぱなしだからさ。これじゃ間に合わないからあたしに手伝えって、よっぽど切羽詰まってるのよ。しょーがない」


 そう言いつつも、ぐだーん、とテーブルにうなだれる夫人。リストを覗くと、まだあと五十人以上に書かなくてはいけないらしい。これは大変だわ。

 わたしは小さく挙手をした。


「あの、わたしが書いてはいけないでしょうか」

「えっ!?」


 ガバッと顔を上げるリュー・リュー夫人。あれっ、やっぱりいけなかった? でもさっき新郎新婦って。それならわたしにも書く資格があるはず。……それとも、身分に差がありすぎて駄目とか……?


 そーっと手を下ろそうとする途中、手首をがっちり掴まれた。


「お願いできる!? やった! 超助かる!!」


 うわぁっ、目がキラッキラ!

 普段でも明るい緑の目は、歓喜に潤むと本当に宝石みたいに輝いていた。『目を輝かせる』とはこのことだわ。

 こんなに喜んでくれるなんて、本当に困ってたのね。むしろ今までどうして、わたしに任せてくれなかったんだろう。キュロス様も、母親が王国語が苦手なのを分かっていただろうに、どうして?


 とりあえず、わたしは紙束を受け取ると、さっそくリストに目を通した。ふむふむ、書き上がったところまで、人名の横にチェックをつけてるのね。そのまま続きから始めようとする、と、リュー・リュー夫人がアッと声を上げた。


「ここからこのへんは、東部共和国に送るものなの。この、絵みたいな字で書かれた名前のひとは飛ばしていいからね」

「でも、受け付けるのは王国の郵便局だから、封筒にはどちらの言葉も書いておく必要があるのでは」

「それはキュロスに残しておけば良いから。だってマリーさん、イプス文字なんて読めないでしょ?」

「大丈夫ですよ」


 そう言ってわたしは封筒の表に、『親愛なるジュー・ロー』から始まる宛名を、イプス語で書いた。住所より先に名前を書くのが東部流だ。その横に並べて、住所から始まる王国流の宛名を書く。続いて本文を……と思ったけど、文面の雛型(フォーマット)ってあるのかしら。式の招待状なら文面が決まっている物だけど、参列者へのお礼だから、個人らしい言葉でいいのだろうか。

 ……たしか、東部では自分の近況から書くのが慣わしだったはず。

 とりあえずそれらしい文章を書いてみて、リュー・リュー夫人に添削してもらおうか。


「これで、いかがでしょうか?」


 出来上がった物を手渡してみる。ずっと無言だった公爵夫人は、やはり無言で、わたしが書いたものをまじまじ見つめた。

 ……な、なんか、緊張感のある反応。なにかまずいことをしただろうか。びくびくと、顔色をうかがうわたしに、リュー・リュー夫人は目を見開いて。


「マリーさん……あなた、イプス語が使えるの?」


 あれ? キュロス様から聞いていなかったのだろうか。わたしは頷いた。


「はい。本で学んだので、話すよりも読み書きの方が得意です」

「話すことも……できるの!?」

「あ、あんまり上手じゃないですけど――ええと――民衆語だけしかわからないの。貴族言葉は載ってなくて」


 と、途中からイプス語に切り替えてみる。そこでふと、さっきの手紙も一般民衆語だったと気がついた。ああ、それが失敗だったんだわ。

 わたしがそれを謝罪すると、リュー・リュー夫人はぶんぶん大きく首を振った。


「それは大丈夫、彼は馴染みの取引先だから。それより……驚いたわ」


「奥様は、イプサンドロスの物語がお好きなのだそうですよ」


 ウォルフガングが補足する。あっそうだ、すっかり忘れていた。

 わたしはテーブルの隅に置いたままだった、『ずたぼろ赤猫ものがたり』をリュー・リュー夫人に差し出した。夫人はほんの一瞬目を細め、すぐに大きな声を上げた。


「それって、ずたぼろ!? わぁーぉ懐かしい! ええーっマリーさんどうしてそんなの持ってるの!?」


 あっ、ご存じなんだ……嬉しい。けど、子供向けの本なのでちょっとだけ恥ずかしい。わたしは紅潮した顔を本で隠しながら、


「実家にあったんです。たぶん生まれる前から。まだ字が読めなかった頃は、姉が朗読してくれて……それでわたし、今でもこれが大好きで」

「お姉さんも、イプス語がわかるの?」


 問われて、わたしは頷き――ふと考えを改めて首を振った。


「いえ……姉は多分、忘れてしまったと思います。読み聞かせてくれたのはわたしが物心つく頃までで、それからは、本そのものが嫌いになってしまったようでしたから」

「でもそれって、お姉さんも五、六歳とかでしょ。独学で読み取れるものじゃないよ。お姉さんは誰に教えてもらったの?」

「多分、祖母だと思います。わたしが四歳の時に、亡くなってしまいました」


 わたしが答えると、夫人はますます、不思議そうな顔をした。

 彼女の疑問も分かる。祖母――わたしの父の母は、生きていたら六十歳過ぎ。戦時中の生まれなのだ。王国は勝利したとは言え、色々と消耗し、余裕のない時代だった。さらに東部共和国は、ほとんど交易がない。この学問は、完全に道楽だった。

 普通、貴族の娘や嫁が嗜めるようなものではなかった。


「おばあさんは、たいへんな博識だったのね」

「酔狂な道楽者だったと、父は言います」


 わたしは苦笑した。

 父はよく、祖母の生涯や人となりを挙げて、わたしのことを罵倒したのだ。

 ――母上は美人だったが、学問なんぞをかじったせいで可愛げがなく、ひとに嫌われ、孤独で、父上から愛されなかった。男を癒やすどころかどやしつけて、父上は早死にした。父が死んだのも、私に兄弟がいないのも、すべて母の学問のせいだ。それでもまだ美人だっただけ救いだ。しかしお前ときたら――と。


 そう話すと、リュー・リュー夫人は眉をひそめた。

 今度こそ本当に、心底不思議という顔をして。


「――なにそれ? ……外国語が出来て賢い女なんて、どこの商家や貴族でも欲しがる、引く手あまたの『いい女』じゃないの」


 ――えっ?


 今度はわたしがキョトンとする番だった。視界の隅で、ウォルフガングがコクコク頷いていた。

 祖母と同世代のウォルフガング、父と同世代のリュー・リュー夫人。ともに、王国貴族の『常識』をよく知る男女。

 二人の顔を見回して、わたしは、困惑した。


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