本当にわたしでいいのでしょうか
お風呂から上がって、夕食のため食堂へ行くと、トッポが落ち込んでいた。壁に額をくっつけて、わかりやすく「しょんぼり」って感じで立っている。
「……トッポ、せっかく旦那様にごはんを作ったのに、食べてもらえなかったのです」
「あら……キュロス様、体調を崩されているのかしら。お昼間は元気そうだったけど――」
「食べる時間が無い、と言って……すぐに弁当にしてお渡ししましたけども、揺れる馬車で食べられるものだから、限界があって」
「えっ、じゃあもうお出かけになったの!?」
わたしが叫ぶと、トッポはコクコク頷いた。
ええー……そんな。
なんだ……それならわたしもお風呂は後にして、お見送りくらいはしたのに。お弁当作りも手伝ったし。
……久しぶりに、夕食をご一緒できると思ったから、チュニカに綺麗にしてもらったのになあ。
そうか。なーんだ。……そうかぁ。
「マリー、旦那さまがいなくてさみしいの?」
「ぅわっ!?」
突然かかった声に全身が跳ね上がる。
スカートの裾を、ツェツィーリエが掴んでいた。うわーもうびっくりした。わたしはぶんぶん首を振った。
「何を言うのよ。わたしはただ、そんなにお忙しいとキュロス様が体調を崩されないか心配になっただけよ」
「でもマリー、すっごく落ち込んでた」
「えっ?」
「落ち込んでおられましたな」
後ろから、ウォルフガングがニコニコと追撃する。
「うん、トッポにもわかりやすかった」
トッポまで……。わたしはもう何も反論せず席に着き、並んだ夕食をもくもく食べた。わたしが食べ終えるまでずっと、侍従たちはニコニコニヤニヤして、わたしを観察しているようだった。もー!
それは、そうとして。
本当に、キュロス様は忙しすぎる。チュニカいわく、例外的なことのようだから、ごく短期間で落ち着くのかも知れないけど。それにしても外出しすぎじゃないかしら。
婚約式まで、あと五十日ほど。ドレスの仕立てなどは着々と進んでいる。貴族の慣わし上、段取りは公爵家が取り仕切るし、セッティングなどはもちろん侍従が完璧に用意してくれる。どこの一般家庭もそうだと思うけど、新郎新婦はこういうとき、言われた通りに動くだけだ。わたしたちは特に、打ち合わせや練習が必要ってわけじゃないけど……けど。
ビーフ・ストロガノフを大きく頬張って、わたしは胸中で嘆息した。
婚約式は、文字通り、結婚を約束する日。
神前で誓う結婚式はもう少し先だけど、親戚や友人知人を招き盛大に行われるぶん、イベントとしては大きい。
ましてキュロス様は公爵令息、国の要人も多く来られるだろう。彼らの前で、自分の伴侶になるひとを公言するのだ。
このマリー・シャデランと、俺は結婚するのだと――
「……本当に、わたしでいいのかしら……」
どうしても、その不安が頭をよぎる。
キュロス様や使用人達は、とりあえずわたしを歓迎してくれている……ような気がするけども。でもわたし、公爵様とはまだ会ったこともないのよ。公爵夫人も、初めて城に来た日に紹介されただけ。親戚や友人、お仕事のこともよく知らないわ。
わたしたちは政略結婚――当たり前だけど、わたしはマリーという少女である以前に、グラナド家の妻としてふさわしいかどうかが重要だ。それはもう不安しかない。わたしは社交界に出ず、他の貴族とろくに会話をしたこともない。そのための教育も、ほとんどされたことがなかった。|お辞儀(カーテシー)だってお母様やアナスタジアの見様見真似、テーブルマナーは教科書知識で、本当に正解なのかわからない。
公爵様との対面は婚約式の直前、最終打ち合わせの時になるという。そう聞いたとき、わたしは悲鳴を上げた。それじゃほんとに直前じゃないか。それで色々ボロが出て、「こんな娘じゃ駄目だ!」って言われたらどうしよう!?
――どうしようもない。わたしはそのまま馬車に乗せられて、追い出されるしかない。
キュロス様や、お城の人たちと楽しく過ごすうち、その不安が大きくなる。きっと大丈夫、なんて思える根拠が何もない。
俯いたわたしの眼前に、すっと差し出されるティーカップ。見上げると、老紳士の優しい微笑みがあった。
「奥様、食後のお茶は、カモミールとオレンジピールをベースにしたシトラスブレンドでございます」
「マリー、これお砂糖たっぷりいれたら美味しいんだよ!」
「おー、でしたらトッポは甘さ控えめのデザートをお持ちしましょう」
「あ……ありがとう」
わたしが言うと、とても嬉しそうに笑ってくれる侍従たち。大丈夫よ、いつお別れになったとしても。十分以上の長い時間、楽しい思い出をいっぱい頂いた。
いつどんな風に追い出されたって、わたしは笑ってさよなら出来ると思うの。
食事とお茶を終えたあと、わたしは部屋に戻り、すぐにまた出かけた。
中庭を抜け、グラナド城のほうへと向かう。目的地は図書資料館だ。
グラナド家の蔵書は、古城の地下に保管されていた。館のほうにも快適な読書スペースはあるのだけど、地図や医学書、図鑑などは隔離されている。戦時中、「軍事機密、兵器」という扱いだった時代の名残だろう。
そこに、わたしは一冊の古書を持ち運んでいた。『ずたぼろ赤猫ものがたり』――母からの荷物に入っていた、わたしの大好きな本。
綴じ紐が千切れ、表紙も外れ、ページはバラバラで、何枚かはくしゃくしゃに丸められていた。それでも破れてはいなかった。わたしはすべて一枚一枚、かすかに濡らして重しを乗せ、シワを伸ばして乾かして、何日もかけて修復した。なんとか読める状態になっている。
問題は綴じ紐だ。イプサンドロス製の古い製本は特殊で、直し方が分からなかった。
ウォルフガングに相談してみると、城の図書館になら、もしかしたら――と。
近代的な館と違い、古城にはガス灯の設備がない。燭台を持って廊下を進む。
「……く、暗いわね……寒いし……」
「やはり、明日の朝になさったほうが良かったのでは」
ついてきてくれたウォルフガングも、ちょっと嫌そうな声で言う。いやほんと、おっしゃるとおりだとわたしも思う。
――いや、でも……どうしてもその夜、直したくなったのだ。懐かしい、大好きだったこの本を。また読み返したくてたまらなかった。
「東部の製本方法が載った辞典を見つけたら、借りてすぐに戻るから」
「……申し訳ありません。旦那さまか、ミオ様だったらご存じだったかも知れませんのに」
「キュロス様はともかく、ミオもそんなに東部のことに詳しいの?」
「……いえ。そういった根拠はございませんけども、なんとなく」
「わかるわ」
そんな話をしながら進む。
図書資料室は城門から見て奥のほう、つまり館からはほど近い位置にあった。そうでなければ、到着までに凍えてしまうところだった。
地下へと続く、細い階段を降りていく。行き止まりに小さな扉がある。案内が無ければ、貯蔵庫か何かだと思っただろう。
事前に預かった鍵で、扉を開こうと――あれ? この扉、鍵穴が無い。ウォルフガングに助けを求めると、彼も首を傾げた。
「錠前がついていませんでしたか?」
首を振る。直後、ギギ……ッと、軋む音を立てて、目の前の扉が開かれた。
思わず悲鳴を上げる。
誰かいる! 内側から、押し開いた人間が顔を出す。
「――おやっ? ……えーと。……名前なんだっけ」
その顔を見て、わたしはホッと安堵した。良かった、泥棒なんかじゃなかった。だけどまた別の意味で緊張する。姿勢を正し、わたしは一礼した。
「マリーです。ご、ご無沙汰をしております。リュー・リュー様……」
その名を呼ぶと、彼女は一度眉を上げ、それからニヤーッと笑った。
息子であるキュロス様と同じ、エメラルド色の瞳が、燭台に照らされてキラキラと明るく輝いていた。
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