旦那様のお帰りです
早く、早くとツェツィーリエに手を引かれる。
もうすっかり履き慣れた硝子の靴。広いグラナド城を、小走りで駆けても躓かない。
途中、料理長のトッポとすれ違う。
「奥様? お昼ご飯はまだ先です。そんなにお腹空いてる?」
「違うのよトッポ。だって今日は」
「旦那さまが帰ってくる日!」
ツェリが叫ぶと、トッポは「ぉほっ」と声を弾ませた。
「そうか、そうでした。それじゃあトッポ、ランチ前のおやつは我慢します。モカのパルフェは旦那様と共に」
「ランチのあとに。わたしのぶんもある?」
「もちろんです」
「それならよかった!」
短い言葉で会話を済ませて、トッポと別れる。そのまま中庭に飛び出すと、ちょうどばったり、庭師のヨハンがそこにいた。うっかりぶつかりそうになったのを、急ブレーキでぎりぎり回避。
彼はわたしの様子を見て察したらしい。すぐに目を細めた。
「旦那様を出迎えるのだな」
「そう! ごめんなさい、道を通して」
「どうぞ。ああ、でも少しだけ待ちなさい」
そう言って、ヨハンはベルトに差したハサミを抜いて、手前の花壇から花を切り取った。鮮やかな赤い花を、小さな花束(ブーケ)にしてわたしに持たせる。
「キュロス様に贈るの?」
わたしが聞くと、ヨハンはもう行きなさいと促した。
お礼を言って、また駆ける。
城門の方が騒がしい。要人の来訪を告げる鐘が鳴り響く。
早く、早くと気がせくと、グラナド城の広さが恨めしい。
「キュロス・グラナド伯爵のお帰りです!」
門番のトマスが声を上げ、後ろ向きに進みながら、馬車を城前に誘導していた。城門を抜け、石の床をゆっくりと歩き進む馬車。
わたしはお城の玄関で足を止め、ツェリと手をつないで待っていた。いつもならここまで馬車が来る。
しかし馬車はそのずっと手前で停止した。トマスが荷台へ向かうより早く、内側から扉が開き、まず長い足が出る。続いて上半身。長身を屈めているせいで、絹糸のように長くしなやかな黒髪が肩から落ちる。
そうして、グラナド城の主、キュロス様は降車した。
「おかえりなさい」
「マリー」
わたしとキュロス様、二人の言葉が全く同じタイミングで重なった。
カーテシーを戻すより早く、キュロス様が駆け寄ってくる。
わたしは改めてもう一度、おかえりなさいと一礼した。片手に持っていた花束を、キュロス様に差し出してみる。
彼はキョトンと眉を垂らした。
「その花は?」
「えっと……なにかしら。ゼラニュームだと思うけど。ヨハンが持って行けって渡してくれたの」
あれ? キュロス様、この花が好きってわけではないの?
なぁんだ。贈り甲斐のない花束を、自分の胸元へ引き戻す。すると、キュロス様は合点がいったらしい。何かとても嬉しそうにクックッと笑った。
「それは俺にじゃなく、マリーの装飾(アクセサリー)だ。まあ、ある意味で俺へのプレゼントでもあるけどな」
「わたしの飾りが……キュロス様の?」
「ああ。赤い髪に緑のドレスと赤い花、まるで花の化身のようだ。思わず抱きしめてしまうところだった」
まあ……っ。今朝のウォルフガングの言葉を思い出し、頬が熱くなる。足下でツェリが言う。
「マリー、顔まで赤くなったよ!」
ああもうやめてちょうだい。いたたまれなくなって、花束で顔を隠した。それを、キュロス様が覗き込む気配がする。
「もらってもいいか?」
えっ!? ……あ、ああ、花束をね。どうぞと差し出すと、手首を掴まれた。強い力で引き寄せられて、前のめりに体が倒れ込む。そしてボフッと、キュロス様の胸に顔が埋まった。
こ、これはっ。
「うわあぁっ!?」
慌てて後ろに飛びすさる。わたしはそのままお城の中まで走って逃げた。キュロス様とツェツィーリエが、一緒になって笑っている。
遠いところから、わたしは叫んだ。
「ああもう、からかわないでください!」
「何もからかっていない」
わたしから奪った花束を、キュロス様は唇に当てた。赤い花弁にキスをして、彼は歩み寄ってくる。わたしのほうへ――いや、お城の中へ。
十日ぶりに会った婚約者は、帰宅早々、すれ違いざまに囁いてくる。
「ただいまマリー。出かけて帰ってくるたびに、また綺麗になっているな、君は」
そして花束から一本取り、わたしの髪へと差しこんだ。
わたしがグラナド城へやってきて、ひとつき半。
使用人たちとはすっかり顔なじみになり、人見知りも場所見知りもなくなった。お屋敷での暮らしは、快適の一言。美味しいご飯と気持ちいいお風呂、清潔なベッド、豪華な調度品――そして、畑の土いじりや幼児との手遊び、オシャレとお喋り。
毎日がただただ楽しい。
一方、婚約者であるキュロス様は、相変わらずお忙しいようだった。
お城に二日と居ることはなく、三日間出かけて半日休み、十日出かけて自室で作業、翌日は丸一日眠って、また一週間出かける生活だ。
わたしとはこうして、出迎えと見送り、夕食だけ一緒にとれたらいいほうだった。
「もーっ旦那様ったら出かけすぎぃ。新婚早々、新妻に寂しい思いさせちゃダメですよねぇ」
湯番のチュニカが、なぜか一番文句を言っていた。
わたしのお腹を、たっぷりのクリームで揉みながら、唇を尖らせて怒っている。
「新婚って、まだ結婚はしてないわ。婚約の口約束だけだもの」
「おんなじですーぅ。ほんと信じられない。せっかく私が精魂込めて、マリー様のお肌を毎晩ちゅるんちゅるんに仕上げてるのにぃ」
「仕方ないわ、お仕事ですもの」
「こんなにずーっと留守にするかんじじゃなかったですよぉ」
「……そうなの?」
「ですぅ。あっ違いますよ、旦那様がマリー様をないがしろにしてるとか浮気とか、そういうのとはっ」
チュニカは大慌てで手と首をぶんぶん、真横に振った。
ひょうきんなしぐさに笑ってしまう。
「大丈夫。別にわたしも疑ってないわ」
「――すみませぇん。むしろ、あれはなにかイヤラシイことを考えてると思うのです」
「……い、いやらしいこと?」
「そう。……イヤラシイことを。チュニカの野生の勘がそう告げておりますわぁ……」
「チュニカって、森の生まれなの?」
「王都中心部、職人街にある七階建てアパートで生まれ育ちましたぁ」
……なるほど?
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