第24話 現実だと信じているもの

 最後に、風間の笑顔が両親の事を思い出させ、風間を完膚なきまでに殴ったことまで話した。

 話しながら、あの古いアパートのビニールカーペットの床にこすれてできた血痕と、その真ん中で血まみれになって倒れている風間の姿を鳴沢は思い浮かべていた。ふいに──鳴沢にはそう思えたが、実際には鳴沢がしばらく考え込んでいただけかもしれない──山崎は口を開いた。

「鳴沢くんはどうしたい?」

 鳴沢は質問の意味がすぐに解せずに山崎を見た。

「控訴したいって言うんだったら、お金はかかるだろうけど、僕が手伝うよ。弁護士さんも知ってるし。その代わり、君が伸司くんにしたことも表沙汰になってしまうけど」

 山崎は静かな表情で言った。鳴沢は少し呆けたような面持ちをしていたが、すぐに首を振った。

「多分……伸司が俺を訴えるんだったらもうしてるだろうし……。してないってことは、あいつもおあいこだと思ってんだろうなって」

 そう言ってうつむいた。

 山崎は「そうか……」と言った。

 今度は鳴沢が聞いた。

「山崎さんは……どうすか? 伸司をボコったこと、報告しますか」

 山崎の目に映った鳴沢は、硬い表情だった。ゴクリと唾を飲みこむ鳴沢に山崎は首を横に振った。鳴沢の緊張が緩んで肩が落ちた。

「道理ではね、ちゃんと決着をつけろって言わなくちゃいけないんだと思うけど。

「でも、僕はなんだか、これは君たちにまかせておかなきゃいけないような気がする。今はどうすることもできないけれど、いつか、時間が経って、君たちの両方が振り返って考えられるときが来るまで待った方がいい。そう思う」

 そう言われて鳴沢は眉間を親指でこすった。

「俺は……何を間違えたんすかね……。伸司のこと、心配してるつもりだったんすけど」

 鳴沢の目が潤んだ。山崎は鳴沢の背中に手をやった。

「君は……、間違えたりはしていないと思うよ。伸司くんも君が心配していることをわかっていたと思う」

「じゃあ、なんで……」

 鳴沢は言葉に詰まった。

「伸司くんは、君に彼と同じ場所に居て欲しかったんじゃないかな」

 鳴沢は目を上げて、山崎を見た。

「彼は、独り立ちをして自分の道を歩き始めた君が遠くに行ってしまうような気がしていたんだと思う。だから、君のアパートから出て行ってみたり、戻って来たり、クスリをやってみたり。君を試していたんじゃないかな」

 鳴沢は、最後に風間と対峙したときの風間の笑い顔を思い出した。あれは、蔑んだ笑いではなかったのだろうか。風間がいつもする、小生意気な、にかっとした笑顔だったのだろうか。だとしたら、風間は自分を犯罪者に貶めてまで彼の側に居て欲しかったというのだろうか、そんなことをしてもまだ自分が彼を許すと思っていたのだろうか。

「鳴沢くん」

 山崎に呼ばれて鳴沢は山崎を見た。

「今言ったことは僕の解釈だ。君のお父さんがお母さんにどうして辛く当たったのかを説明したときと同じように、僕から見た考えだ。

「僕から見ると、君たち二人の関係は、大人になっていく君を伸司くんが引き止めているように見える。でも、それが君たちそれぞれの見方と同じかどうかはわからない。伸司くん自身は『君が近くにい続けてくれるかどうかを試そう』なんて意識してもいなかったと思う」

 鳴沢は、また山崎が何か難しいことを言い出しているのだろう、と思った。しかし、山崎の言うことすべてがわからなくても、そのときどきで残る言葉が鳴沢の気持ちを軽くすることがわかっていた。山崎は、鳴沢が今まで会った誰とも違う考え方をした。

「……僕らは、この世界を自分なりに解釈することでしか理解できない。そのときにどんな解釈を与えるかは僕らの自由だ。ただ、そのときに覚えていて欲しいのは、僕らが見ているこの世界は、世界のほんの一部でしかないこと。そして、それに対してどんな解釈を与えるにせよ、その解釈を与えて、それを信じた瞬間にそれが僕らにとっての現実になってしまう、ということだ」

 鳴沢は、山崎の言うことをすぐには理解できなかった。顔をしかめて首を振った。山崎は、鳴沢の表情を見て少し考えた。そして言った。

「君は『宇宙を見る方法』という本を借りたね?」

 そう尋ねる山崎に鳴沢は頷いた。

「それで説明しよう」

 山崎は鳴沢の方に改めて向き直った。そして、次のように話し始めた。


 僕たちが、僕たち自身、そして僕たちを取り巻く世界だと思っているものは、僕たちの「解釈」に過ぎない。つまり、現実そのものではない。信じられないよね? 僕たちは現実に目の前にある身体の五感を通じて、夕日が赤いなとか、日があたって温かいな、と感じたりするわけだから。

 しかし、僕らが「赤い」と感じる色は、ある特定の長さの電磁波だ。「温かい」と感じるのも別の長さの電磁波だ。つまり、どちらも電磁波で、長さが違うだけに過ぎない。しかし、僕らは一方を光として、もう一方を熱として知覚するように身体ができている。

 僕らは、この世界のことをよく知っていて、それが現実であるつもりでいるけれど、実は僕らが世界を知る方法は限られている。例えば僕らがすべての電磁波を見ることができたら、家電品は眩しく輝いて見えるだろう。そんな風に僕らが頭の中で「これが現実だ」と思っているものは、本当は僕たちが知覚し得る方法を通じた「解釈」であって、現実そのものではない。そして僕らは僕たちが持っている知覚以外に、この世界を知る方法がない。

色即是空しきそくぜくう空即是色くうそくぜしき」という言葉を聞いたことがあるだろう。「色は即ち空である、空は即ち色である」という意味だ。

「色」とは、「形」や「物質」を意味している。つまり、この世界そのものを指している。

「空」とは、僕の理解では「仮想的」という意味だ。つまり、僕らが知覚を通して受け取り、頭の中で「これが現実だ」と捉えている「解釈」を指している。

 そう考えると、「色即是空、空即是色」は、「僕たちが現実だと思っているものは実は解釈である。と同時に僕らは解釈を通じてしか現実を理解できないので、解釈は僕らにとっての現実でもある」という意味になる。

 じゃあ、こんな考えが何の役に立つ?

 君は以前に「考えから抜け出せと言ってもどうしたらいいかわからない」と言っていた。それは、君が考えの中にいるからだ。君は、君の考えが現実だと思っている。君という個人、君が体験してきたもの、君から見た伸司くん……。しかし、一度これが、自分が世界に与えた「解釈」なのだと理解できれば、君はそこから出て来られる。

 もちろん、色即是空を知らなくても解釈はできる。例えば、心理療法のほとんどは、クライアントが今苦しいと感じている解釈を変えるための様々なアプローチだ。でも、心理療法は僕たちの感覚を疑ってはいない。僕たちの感覚が現実だと思っている。でも、仏教はそうじゃない。僕らがこの世界の中のほんの一部しか捉えることができないことを教えている。僕らが見ている世界は、僕たちに許された方法で見えているものを、僕らが理解できる方法で、『これが世界だ』と思っているだけに過ぎないことを教えている。その理解は、僕らが絶対だと信じているこの現実がどんなに儚いものか、僕らがそのことを認識できることがどんなに稀で貴重なことかを教えてくれる。

 こうだったらいいのに、ああだったらいいのに。そう思う気持ちを仏教では「苦」と言う。お釈迦様が「なんだ、現実だと思っていたものは自分の解釈だったんだ」と気が付いた時、これで「すべての苦を排除できる」と彼は思った。それはそうだ。「俺はろくな家に生まれなかった」という解釈を選んで、それが現実だと信じるのも、「親は少なくとも今日まで独りでやって来れる下地は作ってくれた」という解釈を選ぶのも、個人の自由だからだ。そして、僕たちが「この世界は自分が解釈したものだ」と既に知っているときに、わざわざ苦を選ぶ必要はないだろう?


「……ちょっと待ってくださいよ。じゃ、俺は何をされても良い方に良い方に解釈しなきゃいけないってことですか?」

 鳴沢は気色ばんだ。

「そうは言わない。どう解釈するかを決めるのは君だ、と言っているだけだ」

 山崎は珍しく笑っていなかった。

「……君がいつか話したような、映画に出てくるような坐禅。

「僕があれを君にあげられたら、と思う。僕が、君の魂をひょいっと掴んで、苦しいところから救ってあげられるような名僧だったらいいと思う。でも僕は、苦しんでる君を前にしてこんな理屈を捏ねることしかできない。それは取りも直さず、僕がそうやってこの世界と折り合いを付けているからだ」

 山崎の目が宙を泳いだ。何か言葉を探しているようだった。

「僕は今、単純に君に『そうだね、辛かったね』と言ってあげればいいのかも知れない。それだけで君は、少しはほっとできるのかも知れない。

「でも僕は、これから君が生きていく上で、本当に必要だと思うことを伝えたい。

「君のお父さんの悩みがお父さんのものだったように、君の辛さは君にしか解決できない。悔しい気持ち、悲しい気持ち、怒りたい気持ち。その落とし所を見つけるのは君だ。君を真に理解し、救えるのは誰でもない、君自身だ。

「もちろん吐き出したい気持ちがあるなら言えばいい。僕はいつでも聞こう。

「でも、いつだって僕たちは自分の人生に向き合わなくてはならない。それを人のせいにするか、自分の人生として請け負うか。僕がどんなに君を助けたいと思っても、僕は君の人生を代わりに生きることはできない。

「僕たちはこうやって向かい合って話をしていながら、僕らの世界は徹底的に別れている。君は僕が見ている世界を体験することはできないし、僕も君がどんな世界に居るのかを直に感じることはできない。

「僕らができるのは、信じることだけだ。僕が言っていることを君がわかるだろう、と。君がわかった、と言ってくれたときに、それは僕が信じている意味と同じだろう、と。

「君は『なんのために坐禅をするのか』と聞いた。僕らの世界がこんなにも分かたれているときに、僕らが信じられるのは、少なくとも、同じ姿勢で坐り、同じ時を一緒に過ごすことで、僕らは少しでも近い経験を分かち合うことができるんじゃないかということだけだ。

「坐ることで、僕ら一人ひとりの在り方が整えられれば、僕らは皆「中道」から世界を見られる。自分に矛盾のない状態。自分を受け入れ、自分を活かしている状態。頭の振り子がなるべく揺るがずに身体の芯と合っている状態。僕は、この視点で世界を解釈したとき、僕らは一番伸びのびとこの世界を感じることができると思っている。僕らのそれぞれがその状態で互いを信じられたなら、別れている僕らの世界は少しは重なるんじゃないだろうか。僕は……」

 山崎の表情はいつになく真剣で、そのまま黙り込んでしまった。鳴沢は、山崎の言った言葉を考えていた。向かい合って話をしていながら、徹底的に別れている世界。

(俺は、風間がどんな気持ちで自分を貶めたのかを知らない。母がどんな気持ちで去ったのかを知らない。それを知る日は来るのだろうか。いつかまた会う日が来て、その気持を聞いたときに、それを信じることができるのだろうか。そして風間や母は、裏切られた俺の気持ちをわかる、と思えるのだろうか……)


「あ、居た居た」


 切れ切れの息の合間から洩らした声が聞こえた。

 鳴沢と山崎がほぼ同時に振り返ると、神社の階段の登り口から、芙美が荒い息をさせながら足元をふらつかせて近づいてくるのが見えた。

「芙美さん」

 山崎が立ち上がって、芙美の方に走り寄った。

「大丈夫ですか? そんな、無理して……」

「失礼な。まだ、そんな歳じゃありません。ここは、ちょっと急勾配だから……」

 手を貸そうとする山崎を振り払いながら、芙美はベンチに近づいて鳴沢の横に腰を下ろした。

「ふう」

 そう一息吐いて、芙美は鳴沢に微笑んだ。そして、まだ大きく息をしながら言った。

「ほら、山崎さんは相手構わず、すぐ難しい話をしたがるから心配になって。鳴沢くんの話、ちゃんと聞けてるかなって」

 山崎は頭に手をやり、「えっ、そんな心配されるほど僕……」と言いかけると、芙美が「そうですよ。もう、若い子相手にいつも捲し立てて。ねえ?」と鳴沢に向かって首を傾げてみせた。

 芙美がわざわざ自分のために来てくれたのだとわかって、鳴沢は喉の奥で込み上げるものを感じた。

「だいたいね、この年の子に山崎さんの話は難し過ぎますよ。ここに来る若い子達は、美味しいものと愛情が足りてないだけなんだから、きちんと作ったご飯でお腹いっぱいにしてあげて、ちゃんと見てる人がいますよって教えてあげればいいんです」

 芙美は、山崎を見ながら、鳴沢の背中に手を置いた。

「鳴沢くんなんて、自分のお父さんのお父さんやってあげたり、お友達の伸司くんのお兄さんやってあげたり、ずっと背伸びして来てるんですから、今いっぱいいっぱいでしょう。ちょっと甘やかしてあげるくらいが丁度いいんです」

 そう言う芙美を山崎は驚いたように見た。

「芙美さん、いつも入所してくる人には冷静なのに、今回はなんだか鳴沢くんに入れ込んでますね」

「だって、自分だって大変な思いしてきているのに、こんなに人のことを考えて……。もう、うちの二番目の『ようすけ』ですから」

 そう言って芙美は、鳴沢の背中だけでなく、腕にも手を置いた。その芙美の二つの手が温かかった。

 鳴沢の脳裏に両親とプラネタリウムに行った日のことが浮かんだ。三人で並んで笑っている写真。あのとき、母はこんな風に自分の背に手を置いていた。そして、その手がふいに重くなり、更に暖かさが加わった。父が母の手の上に彼の手を置いたのだとわかった。その瞬間に、カメラマンを頼んだ通りがかりの誰かが自分たちに声を掛けた。「それじゃ、行きますよー。はい、チーズ!」

 鳴沢には、芙美の声も山崎の声ももう聞こえていなかった。あれが、あの穏やかだった日が毎日だったら良かったのに。その思いが頭の中で熱を持ったように充満した。そして、喉の奥からどうしても抑えられない嗚咽がこみ上げ、子供のように声を上げた。芙美が驚いた顔で鳴沢の顔を覗き込んだ。鳴沢は、芙美を見たが、何も言えずにただ涙を流した。身体中が理不尽だと叫んでいるようだった。芙美の言葉は嬉しかったが、同時に自分に与えられなかったものの大きさを目の前に突きつけられたようだった。

 芙美は慌てた様子で「どうしたの?」と言いながら、鳴沢の背と腕にかけた手にそっと力を入れた。

 芙美の優しさに鳴沢の感情は耐えられなかった。鳴沢は芙美を振り払うように立ち上がろうとしたが、脚に力が入らなかった。そのまま座っていることさえできずに、鳴沢の身体が地面に崩れ落ちた。頬に土と枯れた草が当たるのを感じた。それもどうでもよかった。ただ子供のように、感情が溢れ出すそのままに泣いた。涙と鼻水で顔を濡らし、その濡れた顔に砂が張り付いた。口元に張り付いた砂が歯に当たるのも構わず泣き続け、地面を拳で叩いた。

 芙美は、口元を両手で覆い、泣きじゃくる鳴沢を目に涙をためて見ていた。山崎は鳴沢の横に腰を下ろし、鳴沢の背をさすった。さすりながら、「大丈夫、君には僕たちが付いている。だから大丈夫だよ、鳴沢くん」と独り言のように何度も呟いた。


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