第23話 決心

 芙美が鳴沢のリストバンドを取り外した朝、鳴沢はさっそく神社に向かった。三日間こもりきりだったのでとにかく外に出たかった。あの階段を登って達成感を感じたかった。出掛ける時に、芙美にはコンビニなど酒を売る店に近寄らないように釘を刺されたが、実はコンビニにも寄った。もちろん、酒を買いたかったわけではない。別の買い物があった。その後、神社に向かい、山の上まで登りきったとき、それがどうしてかはわからないが、鳴沢は少しだけ腹を括れた気がした。

 ようやっと午後になって、山崎がホームに顔を出した。

「ごめんね、さっき帰ってきたところで」

 申し訳無さそうに山崎は鳴沢に言った。鳴沢は黙って首を振った。

「どうしよう。どこで話そうか? お寺に行く?」

 鳴沢は少し迷ったように頭を掻いた。そして、言った。

「……あの、散歩どうすか? また」


 長い階段を登って、二人はまた山の上の神社にやって来た。犬も一緒だった。いつものベンチに二人で腰掛けると、鳴沢はカーゴパンツのポケットから小さな袋を取り出した。そして、その袋を山崎に見せた。

「これ、やってもいいすかね」

 山崎が覗き込んだ鳴沢の手には、犬用のビスケットがぶら下がっていた。

「どうしたの、これ? わざわざ買ったの?」

 山崎はビスケットの袋をしげしげと見た。

「いや、この間、これが無いと犬の機嫌が悪いって……」

 鳴沢は目を逸らした。

 山崎の頭に、「こんな思いやりのできる子が強盗なんて変ですよ」と言った芙美の言葉が浮かんだ。返事のない山崎の顔を振り返った鳴沢に、山崎は笑みを隠せなかった。鳴沢は、ちょっと不機嫌な顔になって「また、なんか見越した気になってるんでしょう」と言った。山崎は笑顔のまま首を振って、「いや、芙美さんの言ったとおりだと思って」と言った。そして、犬の方を振り返った。

「マロ、鳴沢くんがおやつくれるってさ」

 鳴沢は小袋を開くと中からビスケットを取り出した。そして、それを手に包むと犬に拳を差し出した。犬は山崎と鳴沢を交互に見た。山崎が「大丈夫だよ。美味しいものくれるんだって」と犬に話しかけた。犬は、用心深く鳴沢の手を嗅いだ。鳴沢が拳を返してそっと手を広げると、犬は確かめるようにビスケットの匂いを嗅ぎ、舌ですくうようにして食べた。ビスケットが気に入ったのか、犬は鳴沢を見上げた。鳴沢はまたビスケットを手のひらに乗せて犬に差し出した。犬がビスケットを食べる様子を見ながら、山崎が言った。

「僕は昔、大学のカウンセリングルームでボランティアをしててね。今の仕事はそれの延長なんだ」

 犬はもうビスケットには満足したようで、ベンチから離れてうろうろと歩き始めた。

「でも、思うようには行かないもんだよ。『役に立ちたい』とか『助けてあげたい』なんていうのはエゴなんだろうね。いろいろ踏み込み方を間違えて失敗してばかりさ」

 山崎は両肘を膝に乗せ、その間で手を組んだ。

「今日は鳴沢くんの話をちゃんと聞こうと思って来た」

 山崎は鳴沢を見た。そう言われたものの、鳴沢は、どこから話始めていいかわからず黙っていた。山崎も話を継ぐことはしなかかっため、二人の間には沈黙が流れた。

 少し離れたところで草むらをあちこち嗅ぎ回っている犬を見ながら、やっと鳴沢は話し始めた。

 強盗事件の成り行き。風間との出会いから、互いの父親を避けながら二人で過ごした日々。それから次第に噛み合わなくなっていった経緯を語った。菜々未を助けたことで仲違いがあったことも言った。そして、借金を断った日――。


「……金貸せって……。幾ら? 何に使うんだ?」

 鳴沢が強盗事件で逮捕される一月ほど前だった。鳴沢が仕事を終えてアパートに帰ってくると、風間がドアの外に座っていた。その日は残業をしたので、メッセージをくれれば早く帰ってきたのに、と鳴沢が言うと、電話は修理に出しているので使えないのだと風間は答えた。一月の半ばでかなり寒かった。ともかく風間を中に入れた。風間は部屋に上がり込むとすぐ、この間は菜々未のことで頭に来て出て行ってしまったが、自分も言い過ぎた、と言う。鳴沢が構わないと言った後、風間はもじもじしながら黙り込んだ。鳴沢は、風間がまたアパートに戻って来て住みたいと言うのだろうかと思いながら、茶を沸かして淹れた。ストーブで部屋が暖まり始め、熱い茶碗を包む両手のかじかみがようやっと取れた頃、風間は金を貸して欲しいと鳴沢に頼んだ。

 幾ら必要なのか尋ねる鳴沢に風間は「五十万か……六十万」と答えた。相変わらずのいい加減さに鳴沢は溜息を吐いた。

「お前……五十万と六十万じゃ十万も違うだろ。どっちなんだよ」

「ろ、六十万だ、じゃあ」

「『じゃあ』って何だ。『じゃあ』って……」

 鳴沢は椅子の背に寄りかかり、持て余し気味に風間を見た。

「……何に使うんだ」

 風間は下を向いて黙ったままだった。鳴沢はしばらく返事を待っていたが、やがて立ち上がって冷蔵庫を覗き込んだ。もう八時半を回っていて、腹が減っていた。

「飯、食ってくか?」と聞きながら、鳴沢が振り返ると、風間は煙草のようなものを咥えようとしていた。鳴沢は素早く立ち上がり、それをひったくった。

「何すんだよ!」風間が怒鳴った。

 鳴沢は、その手巻きの筒を見ながら「ここで吸うんじゃねえ。大家がゴミに目ぇ光らせてんだ。俺をクビにする気か」と言って、匂いを嗅いだ。その匂いに顔をしかめて、風間の方に放り投げた。

「煙草にしとけ」

「……持ってない」と答える風間に、「お前が置いてったのがまだ引き出しに残ってんじゃねえか?」と鳴沢は再び冷蔵庫に首を突っ込んだ。風間は立ち上がり、食器棚の一番左の引き出しを開けた。風間はそのまましばらく開けた引き出しを見つめていたが、鳴沢に背を向けるようにして引き出しに手を突っ込んだ。その瞬間、冷蔵庫の中から野菜を取り出していた鳴沢は「あっ!」と言って、野菜を手にしたまま風間に近づき、自分の方へ向かせた。風間は片手に煙草の箱を持ち、もう一方の手をジーンズの尻ポケットに入れていた。鳴沢は、ちらっと引き出しの中に目をやり、ジーンズのポケットに入っていた風間の手を掴んで引き出させた。手には何も無かった。鳴沢は無言で風間のポケットに手を伸ばした。風間が鳴沢の手を掴もうとして、二人はちょっとした小競り合いになったが、結局鳴沢が強引に風間のポケットに手を入れ、中から無造作に折られた銀行の封筒を引き出した。鳴沢は風間を睨んだまま、野菜をテーブルに置き、封筒の中身を確かめた。その間、風間は上目遣いに鳴沢を見ていた。鳴沢は、封筒を自分のカーゴパンツのポケットに入れた。

「ったく、油断できねえな」

 風間は情けない声で「だから、金が必要なんだって。頼むよ」と言った。

「お前なあ、六十万って言ったら俺の全財産だ。俺の給料幾らか知ってんだろう。それに……」

 そう言って鳴沢は頭を掻いた。

「それだけじゃないんだろう?全部で幾ら借りてるのか知らんが、俺が少しぐらい貸したって焼け石に水だ」

 風間はそっぽを向いて、「じゃ、どうしろって言うんだよ」と拗ねたように言った。

「……親父さんに頼め」

 鳴沢の言葉に風間は目を剥いて鳴沢を見た。

「今だったらお前んちのおやっさんがどうにかできる。借金チャラにして、入院でもなんでもしてクスリも草も止めろ。でないとお前……」

「あいつが俺の話なんか聞くわけねえだろ?」

 風間は鳴沢の言葉にかぶせて食って掛かった。

「俺が一緒に行って頼んでやる」

 鳴沢は風間の目を覗き込んだ。

「なあ、お前のおやっさんが親心からどうにかしてやろうなんて思うタマじゃないってことはわかってる。でも、お前にはもう後がないし、お前にとっちゃ実家が最後の頼みの綱だ。払う理由が『体面を気にして』っていうんだっていいじゃないか。利用できるんだったらしてやれ」

 風間は鳴沢の言うことが信じられないというように彼を見た。

「……んなことしたら、あいつに一生なんて言われるか……」

「今だってたいして変わらない。だったら搾り取れるだけ搾り取ってやれ。お前をゴミみたいに扱ってきたツケだ」

「嫌だ。あいつに絶対頭なんか下げるもんか」

 風間は腹立たしげに横を向いた。

「伸司……」

「お前はいいよ。もうおっ死んじまってるもんな!」

 鳴沢を見返した風間の目は怒りで充血していた。

「考えてもみろよ、お前だって自分の親父に頭下げられるか?散々好きなように蹴られたり殴られたりしてきてチャラになんかできるか? できねえだろ?!」

 鳴沢は言い返せなかった。

「もう、いい。お前には頼まない」

 風間は、立ち上がると玄関口で靴を突っかけた。

「伸司」

 鳴沢の呼びかけに風間はほんの少し動きを止めたが、そのままドアを開けて出て行った。

「伸司!」

 鳴沢は、靴も履かずに風間を追った。寒い夜道を街灯が照らしていた。アパートのすぐ近くで風間に追いついて腕を取った。風間は鳴沢の腕を振り払おうとしたが、鳴沢は離さなかった。そして、先程風間から取り返した銀行の封筒をポケットから取り出すと、風間の方に突き出した。

「……俺にできるのはこれくらいだ」

 風間は肩越しに鳴沢をちらりとだけ見て、鳴沢の手から封筒をひったくると早足で去っていった。歩いていく途中で、風間が上着のポケットからスマホを取り出し、スイッチを入れて画面を確かめると、またすぐにスイッチを切ってポケットに突っ込むのが見えた。鳴沢は風間を追いかけようかとも思ったが、靴下だけの足元が冷え切っていたのでアパートに戻って行った。


 それからひと月後のこと、鳴沢のアパートに再び現れた風間は妙に機嫌が良かった。借金の返済の目処も立ったと鳴沢に報告した。鳴沢は心底ほっとして、風間の持ってきた酒を飲んだ。酔ってまた小言も言った気がするが、風間は大人しく聞いていた。鳴沢は嬉しかった。これで風間も少しはまっとうに暮らし始めるに違いないと思っていた。しかし、数日後に警察が鳴沢を訪ね、重要参考人として出頭を要請した時、鳴沢は初めて風間が嘘を吐いていたことに気が付いた。そして、自分がその嘘にすっかり嵌められていたことにも。

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