第25話 独りの道

 何週間かして、鳴沢は山崎に紹介されたタナカ工業に就職した。鳴沢の経歴については、社長にだけ話して理解を得て鳴沢を雇ってもらった。鳴沢も過去は過去として、一からやり直すつもりでいた。短気なところはあるが、手先も器用で仕事の覚えも早い鳴沢は会社で重宝された。これも山崎から勧められて、鳴沢は通信制の大学も受講した。

 最初の数年は山崎と頻繁に連絡を取り、芙美の顔を見に自立準備ホームにも顔を出した。週末の坐禅会にも参加した。仕事にも慣れ、大学の授業で忙しくなって来ると、山崎とも芙美とも疎遠になった。その代わり、大学のスクーリングで知り合った女性と付き合い始めた。派手さはない、堅実な女性だった。お互いをよく知るようになる内に、二人とも似たような生い立ちを辿ったことが分かった。そんなことから親近感が深まり、一緒に暮らすようになった。どちらも温かい家庭を夢見た故の選択だったが、現実は思うようには行かなかった。

 彼女は酒を毛嫌いしており、料理酒さえも家に入れなかった。鳴沢は自立準備ホームを出て以来、酒には手を出さなかったが、彼女は鳴沢の帰宅が少しでも遅くなるとどこかで飲んできたのではないかと疑った。また、鳴沢のほんの少しの乱暴な口調や仕草に敏感だった。一方、鳴沢もひどく嫉妬深い男になった。彼女が鳴沢を一人置いて、女友達と出掛けるだけでも不機嫌になった。携帯のパスワードも秘密にさせなかった。二人の間に諍いが起こった時、鳴沢は決して手は挙げなかったが物に当たった。その度に彼女はここぞとばかりに鳴沢を苛み、許さなかった。どちらも笑い飛ばすことが苦手で、喧嘩の後は沈んだ気分が長引いた。六年続いた同棲生活の後、二人とも疲れ切って別れることに同意した。

 鳴沢は彼女の期待に添えなかった自分に罪悪感を感じたが、悲しいとは思わなかった。いつも一人だったので、むしろ一人に戻れたことにほっとした。そのことにも罪悪感を覚えた。その後は、淡々と仕事をこなし、自分の過去が露見しないように会社の同僚とも付かず離れずの付き合いを保ち、現状維持に努めた。仕事だけは順調だった。

 鳴沢がタナカ工業で働き始めてから十年が経った。そんな頃、社内で盗難事件が起きた。財布から現金が抜き取られる事件が多発したのだ。皆が疑心暗鬼になり、社長は警察に被害届を出す前に社員全員と個人面談をすることになった。鳴沢の番になったとき、社長の口振りは端から鳴沢が犯人だと決めつけているようだった。過去の強盗に関しては冤罪だと社長も理解してくれていると思っていた鳴沢は裏切られた思いで、その場で社長と口論になった。その口論を廊下で漏れ聞いた社員から内容が社内全体に伝わり、鳴沢は孤立した。そして、そのまま鳴沢は辞表を提出した。

 鳴沢が会社を辞めて窃盗は収まった。人々はやはり犯人は鳴沢なのだと噂し合った。しかし、一月もするとまた窃盗が始まった。社員には知らせずに社長は隠しカメラを設置し、営業部署の女性が犯人だということが発覚した。社長は被害届を出し、女性は解雇された。社長は陳謝の言葉と共にそのことを鳴沢に知らせて来て、鳴沢さえ良ければ会社に戻るようにも言ってくれた。鳴沢は、戻ってもお互い気まずい思いをするのは目に見えていたので断った。社長は少し安心したようだった。

 それから鳴沢はいくつかの金属加工会社に応募してみた。賞罰の欄の無い履歴書を使った。しかし、どこも書類だけで断られた。あまりに続くので、ある会社の採用担当者に問い正してみた。その担当者は、以前の会社に問い合わせたら窃盗の件を知らされたので不採用にしたと説明した。鳴沢が犯人ではないとわかったとしても、疑いを持たれるような人物はお断りというわけだ。正直に言っても不採用になるだろうし、言わなくても同じだ。鳴沢は手詰まりになり、山崎のもとを訪れた。

 久し振りに会った山崎は一回りも年下の若い妻をもらっており、半年後には子供も生まれるという。相変わらず人のいい笑顔で、話は熱心に聞いてくれたが、ピンクの野暮ったいトレーナーを来ていた山崎の面影はなく、若い妻が選んだと思われるストライプのボタンダウンのシャツにスリムなジーンズを身に着けていた。芙美もホームを先ごろ辞め、今は県外で働く息子の家族と同居しているらしい。山崎が見せてくれた芙美の写真は以前と比べて年は取ったものの幸せそうだった。それはいいことだと思う反面、寂しいと感じたことは否めなかった。帰り際に、山崎は知り合いの会社社長に話してみると約束してくれた。


 次の仕事を見つけるまでの間、鳴沢は夜間のジョギングを始めた。仕事で体を動かすことがなくなってしまったので、夜も寝付けなかったし、朝も早い時間から目が覚めてしまった。ジョギングはその解決策だった。昼から運動しても良かったのだが、いかにも無職という感じが恥ずかしく、わざわざ暗くなってから走りに出掛けた。

 その晩も川沿いの遊歩道に走りに行った。いつもは、犬の散歩をする人やウォーキングをする主婦グループなどで意外ににぎやかなのだが、その晩はあまり人と出会わなかった。一人で流していると、前方に中年の女性が走っているのが見えた。鳴沢のスピードで女性に背後から近づくと、女性は必ず振り返るか、ちらりと鳴沢に目をやって脇に避ける。それを知っているので、鳴沢はなるべく女性から離れた場所を通って追い越すことにしていた。いつもどおりに、遊歩道の脇の草の生えた部分を走るようにして女性を追い越した。その際に、女性の付けていた香水が匂った。汗に混じった香水はひどく生々しく女を感じさせた。と、同時になぜか懐かしい気持ちになった。走り続けながら、鳴沢はその懐かしさの記憶を辿った。赤く口紅を塗った母親の顔が浮かんだ。そうだ。母親を最後に見たときに、彼女が付けていた香水だ。鳴沢は思わず足を止めて、追い越した女性を振り返った。

 しかし、そこには誰もいなかった。

 女性は遊歩道から脇道を曲がったのだろう。がらんとした川沿いの風景がほの暗く広がっていた。自分の走ってきた道がゆるく湾曲しながら伸びており、そこに均等に並んだ街灯が規則正しく淡い灰色の光の輪を地面に落としている。夜風が顔に当たった。


 俺一人だ。


 前を向いても、後ろを向いてもたった一人だった。鳴沢は強烈な孤独を感じた。たまらなく寂しくなった。母親が出て行ったときの絶望が心臓を固く掴んだように感じた。

『捨てられたんだ。お前も! 俺も!』

 父の怒鳴り声が頭の中で響いた。

 突然、強烈な酒への渇望が湧き起こった。もう何年も酒を断っているにも関わらずだ。酒がこの気持を和らげてくれればいいと思った。それと同時に、そう感じる自分に恐怖した。

(同じだ。父親と。あれと同じなんだ)

 呪いは相続されてしまった。今この瞬間の選択の自由などは無いのだ。

 鳴沢はがむしゃらに走り出した。どこへ向かうというのでもなく、遊歩道をただひたすらに走った。早く走れば、その恐怖から逃れられるかのように。途中で行き違う人が「うわっ」と言って慌てて横に飛び退いても、何も言わずに走りまくった。ようやっと、何本かの橋を経たところで息が切れてきた。手足が重くなって、もうこれ以上は走れないと感じてもふらふらと歩き続けた。そして、河原の土手にばたりと仰向けに倒れた。まだ息が苦しかった。喉の奥が通り過ぎる空気でひゅうひゅうと音を立てた。頭上を見上げた。街灯が並び、虫が飛んできてはぶつかることを繰り返していた。そして、その向こうに、都会の、何も映らないのっぺりとした暗い夜空が広がっていた。


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